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第八章 再びの春 1 桜

 結局遼真は道場に通い始め、馨と共通の友人も何人かできた。たまに、佐奈を交えて三人で飲みに行くようにもなった。そして季節は移ろい、冬が終わり、再び春が巡って来る。 「今年こそ、ちゃんとしたお花見がしたい」  遼真が言い出した。しかし馨はあまり乗り気でない。 「花見ならもう行ったやか」 「それはみんなとでしょ。僕は馨ちゃんと二人で行きたいの」 「佐奈さんの料理、うまかったにゃあ」 「まぁおいしかったけど……でもあれ、お母さんが作ったって言ってたじゃない。大体あの人、見るからに料理できなさそうだし」 「けどわしはおまんの飯が一番好きやき」 「ちょ、そんなこと言っても何も出ないよ」  遼真は照れ笑いをする。 「いや、じゃなくて、二人で花見。行こうよ」 「えぇー……だってぇ、どうせ混んじゅうろう」 「なるべく人混み避けるから」 「うーん」 「にゃあ、馨ちゃん。お願い」  遼真は両手を合わせて頭を下げる。 「去年はあがいなことになってしもたけど、今年こそ、ね? 久々にちゃんとしたデートがしたいにゃあ」 「……まぁ、そこまで言うがやったら……」  馨は遼真のお願いに弱かった。  昨年の失敗を生かし、日取りは平日の夜ではなく、休日の昼間に決まった。これで、急な残業により遅刻をする心配もない。    *   「それじゃ、先行くね」  当日、遼真はいやに早く起きて準備をした。まだ起きたばかりの馨を置いていこうとするので、馨は慌てて引き留める。 「は? ちょ、待ちぃや。どういて一人で」 「先に済ます用があるんだ。メール見てないの」 「み、見んわ、わざわざ。口で言えば済むことやか」 「それじゃあ、ちゃんと読んでおいて。また後でね」  遼真は笑顔で手を振り、行ってしまった。一人ぽつんと残された馨は、仕方なくスマートフォンを開く。確かに遼真からメールが届いている。待ち合わせの時刻と場所が書かれていた。  九段下の喫茶店で待ち合わせだったが、馨は十五分遅刻した。駅から走ってきた勢いそのままに入口の扉を開ける。激しくカウベルが鳴り、客と店員が一斉に振り返る。馨は気恥ずかしさに縮こまって、遼真の待つ席まで急いだ。 「馨ちゃん、こっちこっち。遅いよ」 「おま……わざわざこがぁな洒落た店指定しくさって……」  席に着くなり、一目で遼真の恰好が今朝と違うことに気づく。 「……ジャケットなんぞ着ちょったか?」 「これね。さっきデパートで一式揃えた」 「それに、髪が変じゃ」 「美容院行ってきたんだ。変って言わないでよ」 「変……いや、別に変やないけんど……やっぱり変じゃ」 「ひどいなぁ」  遼真は苦笑いをする。馨は急激に喉の渇きを覚え、遼真の飲んでいたアイスティーを一口もらった。 「馨ちゃんも飲み物頼みなよ」 「花見は?」 「ちょっと休憩してからでも間に合うよ。何がいい? ケーキも頼むかい」 「普通にコーヒーでえい」 「そう。僕はレモンパイ頼もうかな」 「えっ」 「うん?」 「いや、おまんが食うっちゅうなら話は変わるやか」  馨はメニューを開き、唸りながら吟味した。 「ほいたら、桃のタルトでも食うかの。期間限定じゃき」  遼真が注文してくれ、コーヒーとケーキが運ばれてくる。まるで優雅なアフタヌーンティータイムである。遼真とこういう畏まった純喫茶に来るのは初めてではないが、どうも慣れない。慣れないといえば、遼真の恰好が決まりすぎているのも気になる。  平日はまず着ないネイビーのカラーシャツに、ライトグレーのセットアップ。革靴と色を合わせたベルトの金具がきらりと光る。ネクタイを締めていないから立派な喉仏がよく見える。美容院へ行ったばかりなだけあって髪型もすっきり整っている。  馨は、何だかんだでいつものスーツ姿が一番好きなのだが、たまにはこういうカジュアルなのも悪くないと思った。というかむしろ良い。正直、かなり好みだ。爽やかが過ぎる。知的で上品で、年上の余裕と色気が滲み出ている。最近は腑抜けた部屋着姿や汗臭いジャージ姿ばかり、あるいは裸ばかりを拝んでいたから、そのせいか余計新鮮に感じる。 「どうしたの、じろじろ見て」 「なっ、なんちゃあやない」  つい見惚れていた。馨はさっと顔を伏せる。 「きょ、今日はずいぶん、気合い入っちゅうにゃ」 「デートだからね。それに春だし。どこか変かな?」 「変やない」 「そう? ちょっとかっちりしすぎたかと思ったけど、馨ちゃんがいいならいいや」  おかしいのは馨の方だ。胸がどきどきして遼真のことを直視できない。なんだか懐かしい感覚だ。出会ったばかりの頃を思い出す。 「ケーキ、零れてるよ」 「えっ、あ……」  ぼんやりしていた。傾きすぎたフォークから、クリームがぼたぼた垂れている。遼真がすぐにナプキンで拭き取ってくれる。 「服は汚れてない?」 「大丈夫……」 「どうしたの、体調悪い?」 「な、何ちゃあやない。もう、しゃんしゃん食うて帰るちや」  遼真と対面で座っているから落ち着かないのだ。そう馨は思ったが、喫茶店を出て公園の遊歩道を散歩し始めても、そわそわと浮き立つ気分は収まらなかった。  皇居に隣接する自然の多い公園で、桜の名所であると同時に江戸城の遺構が見られるなど歴史的価値も高い。歩きながら遼真が色々と説明をしてくれるが、馨はそれどころではなかった。汗で湿る掌を、しきりにズボンに擦り付ける。 「桜、満開だね。一番いい時期かも」 「ん」 「先週はまだ五分咲きって感じだったし」  遼真の言う通り、ここの桜は今が盛りであった。遊歩道を挟んで満開の桜が無限に連なり、青い空を覆い隠さんとばかりに咲き誇っている。その勢い、生命力に圧倒される。 「おっと、すみません」  いきなり、向こうから来た花見客と肩がぶつかった。写真を撮るのに夢中だったらしい。ぶつかられてよろけた馨を、遼真は片手で軽々抱き止める。触れられたところから熱が伝わる。 「大丈夫? だめだよ、ちゃんと前見て歩かないと」 「あ、歩いちゅうやか。子供扱いしなや」 「けど……心配やき、手繋ごうか」 「へ?」  遼真は馨の手首をそっと撫で、そのまま手を握って指を絡め取った。馨はびくっと体を強張らせる。五本の指が糸のように絡み合い、洋服越しでなくダイレクトに遼真の熱が伝わってくる。真夏かってくらい熱くて仕方ない。手汗はますます酷い。 「にゃ……にゃあ、さすがにこれは……」 「恥ずかしい?」 「う、うん……」 「普段もっとすごいことしてるくせに」 「そっ、それとこれは別……」  しかし振り解くことはできず、馨も遼真の手を握り返した。気をよくしたのか、遼真は指先で馨の手をすりすり撫でる。 「やっ、やめぇや……」 「馨ちゃんこそ、僕の方ばっかり見るのやめなよ。せっかくお花見に来たんだから」 「はぁ? おまんのことなぞ、見やせんわ」 「見てたよ。喫茶店でもそうだし、さっき人にぶつかった時も、桜見るふりして僕のこと見てたでしょ」 「みっ、見ちゃあせんわ、あほ……」  嘘である。無意識ではあるが、遼真のことばかり気になっていた。しかし仕方ないだろう。正直かなり好みなのだ。今日の遼真は全身余すところなく格好いい。こんな男にぴったり隣を歩かれていては、どうしたって調子が狂う。  無限に続くかのように思われた桜並木を歩いていくと、じきに水辺に出た。江戸城の内堀だった場所だ。右岸も左岸も一面桜が咲き乱れ、たくさんの花見客で賑わっている。ボート乗り場があり、こちらもまたカップルや家族連れで盛況である。 「僕らも乗ろうよ」  遼真は馨の手を引いて誘う。 「ほいたらわし漕ぎたい」 「やったことあるの」 「あがなもん、簡単じゃ」  列に並んでしばらく待って、ようやく水上へと漕ぎ出す。馨は見様見真似で何となくオールを回すが、留め具がギイギイ鳴って水飛沫が立っただけでほとんど進まない。 「む……何じゃあ、さっぱり進まん」 「やっぱり乗ったことないんじゃないか」 「や、やればできるちや。見ちょきや」  頑張ってオールを回すも、やはりバシャバシャ水面を叩くばかりで前に進まない。風と波に乗って流されていく。 「んぐぐ……進まん」 「もっと水の中にオールを沈めないと」 「こうか?」 「全身使って、大きく動かすんだよ」 「……こう?」 「そうそう、上手だよ」 「にゃっはっは、わしにかかれば、こがなもん容易いわ」  馨は自信満々に胸を張った。調子に乗って一気に対岸まで漕ぎ着ける。畔では満開の桜が岸からせり出して咲きこぼれている。重みのために枝が垂れ、水面すれすれで折り重なるように咲いている。その美しい姿を、澄んだ水鏡はくっきりと映し出す。ボートから身を乗り出した馨の姿も、そして遼真の姿も水に映る。 「ここまで来れば、人もあんまりいないね」 「けんど、向こう岸から見える……」 「どうせ誰も見てないよ」  遼真は馨の手を取ってこっそり指を絡める。馨は胸がどきどきと高鳴るのを感じた。単に全力でボートを漕いで疲れていたからかもしれない。 「……おまん、今日はちくとおかしいぜよ。わしゃあ、もっとこう、適当に酒飲んで団子でも食うだけかち思うちょったのに……そがぁに、えい格好しくさって……」 「こういうのは嫌?」 「……わ、わざわざ、洒落た茶店なんぞで待ち合わせるし……一緒に住んじゅうのに……」 「時間と場所決めて待ち合わせるの、デートらしくていいと思ったんだけど」 「ちゅうか、何も今更デートらぁて……毎日一緒におるのに……」 「けど、初心に返ろうかと思って。たまにはこういうのもいいでしょ。花吹雪の中の馨ちゃん、きっと綺麗だと思ったから、どうしても見てみたくって」  その時、タイミングよく春風が吹いて、花びらが乱れ散った。馨は目を瞑り、髪を押さえる。次に目を開いた時、遼真の顔が至近距離まで迫ってきていた。 「んにゃっ!?」  驚いて立ち上がる。途端にボートが大きく傾いた。 「おわっ!?」  ぐらぐらと揺れ、水が跳ねる。馨はバランスを崩したがどうにか踏ん張り、間一髪で転覆は免れた。ゆっくりと座り直すと、ボートはすぐに均衡を取り戻す。 「……焦ったぁ……」 「わ、わしの方が焦ったちや。水に落っこちるとこやった」 「いや、馨ちゃんが落ちる時はたぶん僕も一緒に落ちてるよ」 「はぁぁ……まっこと焦ったぁ。心臓、まだばくばくしゆう。触ってみぃ」  馨は遼真の手を取って、自身の左胸に当てさせた。 「確かに、すごくどきどきしてる」 「ほうじゃろ。まっこと、落ちんでえかった……」  顔を上げると、再び遼真の顔が至近距離に迫っていた。当たり前だ。今回のことは馨が自分で招いた事態だ。 「あれ、今またどきどきして――」 「や、やかましい。手ぇ離しぃや」  馨は遼真の手を払い、ぎゅっと胸を押さえた。押さえれば押さえるほどに、鼓動はどんどん速くなる。遼真は真面目に心配そうな顔をする。 「大丈夫? そんなに怖かった? 泳げない……わけないよね。昔よく川遊びしたし」 「別に、怖がっちゃあせん……ちゅうか、おまんのせいやか。急に近いき、びっくりしてもうて……」  馨が言うと、遼真はあっと思い出したような顔をして、馨の頭に手を伸ばす。 「え、な、なん」 「いいから、じっとしてて」  髪に遼真の手がそっと触れ、離れていった。 「ほらこれ、髪に花びらついてたから」  ハート型の薄い花びらを、遼真は掌に乗せて馨に見せる。ふうと息を吹きかけると、ふわりと舞い上がる。そのままそよ風に乗り、ひらひらと空中を舞い、水面に浮かんでふわふわ漂う。 「わしの花びらが……」 「流れていっちゃうね」 「形、結構綺麗やった」 「うん、色も綺麗だった。次、僕が漕ぐよ」  遼真が言い、席を交換した。もたつくことなく、遼真はすいすいと舟を漕ぐ。全身を大きく使い、オールを大きく回して水を掻く。ボートは滑らかに水上を走り、無駄に飛沫も上がらない。 「おまん、慣れちゅうならわしにやらせんで、最初からおまんが漕げばえかったやか」 「けど馨ちゃん、やってみたかったんでしょ。初めてなのにすぐ上手になったし、筋が良いよ」 「にゃはは、そう褒めなや」 「ねぇ、ちょっと目瞑ってて」 「どういて」 「いいから、ね。僕がいいって言うまで」  仕方なく、馨は目を瞑った。遼真の息遣いと、オールを漕ぐ音と、水の跳ねる音が聞こえる。ぽかぽかして眠くなった。 「にゃあ、まだかよ」 「もうちょっとだから……もうちょい……うん、いいよ」  とある地点――水面に覆い被さるように咲く桜のちょうど真下――に到着し、ボートはゆっくりと停止した。馨は目を開け、わぁっと歓声を上げる。  目に飛び込んできたのは圧倒的な量感の桜花だった。視界全部が桜の花に埋め尽くされる。目に入るもの全てが淡く染まる。そこはまるで桜の洞窟。桜の帷(とばり)が下り、桜の筏が浮かぶ。息もできないほど幻想的で、まるで俗世から隔絶した幽(かく)世(りよ)か、桃源郷にでも迷い込んでしまったみたいだった。 「……こがぁな穴場、よう見つけたのう」 「たまたまね」 「はぁ……まっこと、えいのう」  お濠の水も陽の光も、淡い桜色に透き通る。馨の頬や髪も仄かに色付く。馨はうっとりと目を細める。 「馨ちゃん、綺麗だね」 「おう、まっこと。これぞ日本の春やにゃあ」 「違うよ。馨ちゃんが綺麗だって言ったの」 「はぁ? わしはそがなんやない」 「ううん、綺麗だよ」  流れるように唇が重なった。馨は息を止め、目を瞬かせる。二、三度瞬くうちに、遼真の温もりはそっと離れていく。 「っ……ここ、外やのに……」 「四方桜に囲まれてて、誰に見られるっていうの」 「……けど……あ、明るいき、恥ずかしい……」 「馨ちゃんはかわいいね」 「は、はぁ? わやにしくさって」 「だって、絵に描いたみたいに完成されてたから」  俯いた馨の頬に手を添えて優しく撫でる。 「にゃあ、もう一回」 「……し、舌入れんで」 「入れんよ。にゃあ、もっかい」 「ん……」  唇が触れて、離れて、また触れる。もどかしくなって、吐息が熱を孕む。二人きりの舟の上、人目を忍んで幾度も唇を重ね合わせた。     帰りは遼真がボートを漕いだ。桟橋に付け、陸に上がる。二人ともなんだかぼーっとしてしまい、会話もなかった。 「……馨ちゃん、髪……」  先に言葉を発したのは遼真だった。馨のポニーテールに指を突っ込む。 「花びら、いっぱい埋まってる。さっきの花吹雪のせいだ」 「取っとうせ」 「今取ってるけど、でもなんか、せっかくお姫様みたいでかわいいのに、もったいないかも」 「姫ぇ? わしゃそがなもんになりとうないき」  馨はぶるぶると頭を振る。犬が濡れた体を乾かす時のような仕草だ。豊かな髪に引っ掛かっていた花びらはひらひら踊り、舞い落ちる。 「あっ、ちょ、待って待って」 「おまんに頼まんでも、こうすればえいだけの話やった」 「けど、ね、一個だけ。大人しくしてて」  ばらばらの花びらではなく、なぜかガクごと落っこちてきた一輪の桜がある。それを遼真は丁寧に馨の髪に挿し直す。ポニーテールの結び目に挿して、シンプルな花飾りとした。遼真は満足して笑った。     帰り道、桜餅を買って帰った。もちろん道明寺餅である。二人ともこれしか食べない。マンションに帰って洗面台の鏡を見、そこでようやく自身の髪に桜が飾ってあることに気づいた馨は顔を赤くして怒ったが、それはそれとして花はガラス皿に生けた。数日持った。

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