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第八章 再びの春 2 猫①

 ある日、猫を預かることになった。遼真の同僚が飼っている猫だ。一人暮らしなのに、急遽二週間の出張が入った。遼真は快く世話を引き受けた。出立の前日、飼い主は猫を大きなキャリーバッグに入れて連れてきた。そして、荷物を置くとすぐに帰ってしまった。猫はすっかり警戒した様子で、キャリーの中に閉じ籠って出てこない。かれこれ二時間になる。 「ねこぉー。ほれ、餌やるき、出てきぃや」  馨は張り切った様子で猫に構うが、猫は心を開かず顔も見せてくれない。 「うーん、全然だめじゃのう」 「しょうがないよ。知らない家に連れて来られたら誰だって怖いさ」 「けど顔見たい」 「あんまり気にしてるとますます警戒して出てこないよ。大丈夫、二日もしたら慣れるから」 「おまん、猫飼うたことあるがか」 「ないけど、この子とは会ったことあるし、前にも一度預かったんだ」 「ほう」 「わかったらごはんにしよう。冷めちゃう」  テレビもつけず静かに食事をし、風呂を出て歯を磨いても、猫は一向に姿を見せない。置いてある餌も減らない、水も減らない、トイレに行った形跡もない。馨は心配そうにキャリーを覗き込んだ。しかし絶賛警戒中の猫は毛を逆立てて威嚇する。 「シャーされた」  馨はすごすごと引き下がる。 「人に慣れちゅうち話やったのに。嘘やったがか」 「人っていうか、飼い主さんに懐いてるだけだから……ちょっと、一人にしてあげようか。猫って元々夜行性だし、電気消して暗くしてあげたら、安心して出てくるかも」  というわけで、かなり早いが人間二人は寝室に引っ込み、本を読んだり動画を見たりして暇を潰した。適当な時間になってベッドに入っても、馨はそわそわと落ち着かない。遼真が抱きついてみても、鬱陶しげに追い払われる。今のはさすがに傷付いた。 「猫がひとりで心細うしちゅうのに、そがなことやっちゅう場合やないろう」 「でも、どうしようもないじゃないか。放っておくしかないよ」 「大体、ほれ、声が……やかましゅうしたらかわいそうやか。猫、知らん家で怯えちゅうのに。音に敏感やち、おまんが言うたがやか」 「言うたけど……馨ちゃんが我慢すれば……」 「いかんいかん。それにおまん明日仕事じゃろ」 「けどまだ時間あるき、一回くらいなら……」  などとベッド上で攻防を繰り広げていると、リビングから猫の鳴き声がした。母親を探す子猫のような、頼りなくか細い鳴き声だ。馨は即座にベッドを飛び降り、とはいっても足音は立てず、ドアの隙間からこっそり猫の様子を窺う。 「馨ちゃん、あんまり刺激したら」 「えいやか。ここから見ゆうだけやき」  遼真も馨と同様、ドアの隙間からリビングを覗き見る。猫はニャオニャオ鳴きながらキャリーバッグの周りをうろうろし、一口だけ餌を食べた。時間をかけて全身の毛繕いをして、そうかと思うとまたニャオニャオ鳴いて歩き回る。 「落ち着かんのう」 「でも餌食べてたね。よかった」 「けど、普段ならもっとちゃんと食うろうに。食欲ないがかのう」  馨はしょんぼりとしてベッドに戻った。遼真も隣に横になる。猫はいまだに切ない声で鳴いている。 「……飼い主を探しちゅうがや」 「そうだね。よっぽど好きなんだね」 「もうここにはおらんのに、それを知らんで健気に探しちゅう……」  ぐす、と馨は鼻を啜る。遼真はぎくりとしてしまう。 「馨ちゃ……何も泣かんでも」 「なっ、泣きゃあせんけんど!?」 「ちょ、声大きいよ」 「あ、すまん猫……」  馨は口を押さえた。 「しっかし、あがいに鳴いてかわいそうじゃ。ひょっと、捨てられたち思っちゅうかも。こんまま一生飼い主が戻ってこなんだらどうしようち、不安になっちゅうかも」 「馨ちゃん、猫の気持ちわかるの?」 「想像に決まっちゅうやか。けど、おまんもそう思わんか? 大人のくせに子猫みたぁにみゃあみゃあ鳴いちゅうし……」  遼真は馨の感受性が豊かなことを意外に思いつつ、みゃあみゃあという猫の鳴き真似がかわいかったからまた聞きたいなどと俗っぽいことを考えた。    *    翌朝になっても猫はキャリーに閉じ籠ったまま。ほとんど減っていない餌と水をとりあえず取り替えてやり、遼真は仕事に出かけた。昼間の世話は馨がしてくれる。  馨に影響されたか、遼真も猫のことが気になってしまって仕事に集中できなかった。その日は珍しく残業がなく、遼真は急ぎ足でマンションに帰った。 「ただいま」  静かにドアを開ける。誰も出迎えてくれない。足音も立てずこっそりとリビングを覗く。馨はカーペットに腰を下ろし、手元で何かしているようだった。遼真が呼びかけると振り向いて、しぃっと唇に指を当てる。  なんと、馨が持っていたのは猫じゃらしだ。飼い主が置いていった、普段から猫が遊んでいるという玩具。猫は元気に飛んだり跳ねたりして、馨が振り回す玩具にじゃれている。今朝とはまるで様子が違う。 「どうしたの、それ」 「むふふ……懐いた」 「どういうこと」 「昼寝して起きたらこいつも炬燵に潜っちょったき、ちっくと遊んでやったら懐いた」  馨は楽しそうに猫をじゃらす。先端が細長い羽根になっているためか、猫は狩猟本能を露わに飛び掛かる。 「にゃはは、ほれほれ、元気じゃのう」 「名前呼んであげたら?」 「トラ、トラちゃん」  馨は猫撫で声で甘やかす。猫は尻尾をぴんと立て、返事をするように短く鳴く。 「わぁ、かわいいね」 「名前呼ばれたちわかっちゅうがや。利口じゃのう」 「いいなぁ、僕にもさせて」  しかし遼真が猫じゃらしを持つと猫は態度を急変させ、ふいっと背を向けてキャリーバッグに戻ってしまった。さすがの遼真も傷付く。猫じゃらしを持ったまま呆然としてしまう。 「……ま、まぁ、おまん昼間おらざったき、まだ慣れちゃあせんのじゃろ。明日にはきっと、にゃ……」  馨は遼真を哀れみ、慰めた。その晩、猫は決まった量の餌を完食した。夜鳴きして部屋を歩き回ることもなかった。

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