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第八章 再びの春 2 猫②

 それから二日過ぎ、三日過ぎ、週末を迎えても、猫はなかなか遼真に懐かなかった。馨には懐いてよく遊んでもらっているのに、遼真が遊ぼうとしてもそっぽを向いて、物陰に隠れてしまう。撫でようとして威嚇されたこともある。尻尾をぼわぼわに膨らませ、牙を剥いて唸られた。 「どうして懐いてくれないんだろう、トラちゃん……」 「顔が怖いとか?」 「怖いかな、僕」 「いんや……んー、体が大きゅうて怖いとか……」 「そんなに大きくないよ。普通だよ」 「そ、そがぁにしょげなや。ほうじゃ、おまんもチュールやってみぃや。あれ食わせりゃ一発でめろめろじゃあ」  飼い主が置いていった猫のおやつ。魔法のヤバいエキスが入っているなどと巷で噂されている代物だ。その小袋をちらつかせただけで、猫は潜んでいた物陰から素早く飛び出し、遼真の前にちょこんとお座りした。 「おっ、来た来た! えかったにゃあ、りょーまぁ」  遼真よりも馨の方が大喜びする。 「お手させぇ」 「猫もお手ってするの?」 「するする。チュール食う時だけしてくれるき、おまんも試しにやってみぃ」  右手を差し出すと、指先にちょこんと前足を乗せてくれた。ぷにっとした感触が、しかし一瞬で通り過ぎていく。 「おー、ちゃんとできた。トラはまっこと偉いにゃあ」 「もうあげていいの」 「お手だけさせてご褒美やらんと拗ねてまうき、早うしぃ」  小袋の封を切ると、猫は目の色を変えてがっついた。今まで警戒していたのが嘘みたいに、遼真の手からおやつを食べる。夢中でぺろぺろ貪っている。遼真は感動して震える。馨も嬉しそうに笑う。 「どうじゃ、かわいいろう」 「う、うん……ほんと、チュールってすごいね。魔法みたい」 「えかったにゃあ、これでおまんもトラと仲良し……」  しかし猫はおやつを食べ終えるや否や、素っ気なく物陰に戻っていく。遼真から隠れて、口の周りを舐めたり顔を洗ったりする。馨はかける言葉もないといった顔で遼真を見た。 「……哀れむような目はやめてよ」 「どういてかのう。おまん、猫に嫌われるにおいでもついちゅうがやないか?」  馨はくんくんと遼真のにおいを嗅ぐ。 「……臭い?」 「んー、さぁ。もっとこっち寄りぃ」  そう言いつつ馨の方から遼真にすり寄って、耳の裏や頭皮のにおいを嗅ぐ。それこそ猫のように、鼻先を微かに触れさせてくんくんにおう。 「ど、どうかな」 「えー? んー、どうかのう」  遼真がどきどきして尋ねるのに、馨ははぐらかしていつまでも飽きずににおいを嗅ぐ。仕舞いには遼真の頭を抱きかかえ、首筋に唇を押し当てた。キスするように唇を滑らせ、柔く食む。 「ちょっ、今のは完全に誘ってるでしょ」 「匂い嗅ぎゆうだけやか」 「うそ。今キスした。ていうかそもそも、くんくんしてるのがかわいい。ネコちゃんみたい」  遼真は優しく馨を押し倒した。悪戯成功とばかりに、馨はきゃあきゃあ高い声で笑う。 「誰が猫ちゃんじゃ」 「僕のネコちゃんでしょ。にゃあ、キスしていい?」 「鼻キスのことかよ?」 「違うよぉ、お口キスのこと」 「猫にお口キスはいかんろう」 「馨ちゃんはキスしていいネコちゃんだからいいんだよ」  始めは軽やかなリップ音をさせて口づけ、徐々に深く舌を交わらせる。始めは可笑しそうにくすくす笑っていた馨も、徐々に余裕なさげに息を弾ませ、唇を蕩けさせる。遼真の首に腕を回し、甘える。 「にゃあ、寒いき、脱ぎとうない……」 「じゃあ、炬燵入ってする?」 「そがなん、できるが?」 「うーん、たぶん。でも動きにくいかも」  遼真は馨の服を捲り、素肌を撫でた。その時である。ニャーン、と猫が鳴いた。唐突であった。二人とも、鳴き声のした方へと意識を向ける。 「……トラが見ちゅう」  猫はソファに座り、べたべたと乳繰り合っている人間二人をじっと見下ろしていた。他意のない真っ直ぐな視線が、今は逆に恥ずかしい。恥部を観察されていたかと思うと、たとえ猫相手だとしても気まずくなる。 「……やめようやぁ。風呂もまだ入っちゃあせんがやき」  馨は言い、起き上がった。捲れた服を戻し、乱れた髪を直す。遼真は、正直なところ今更やめられる状態ではなかったが、猫に見られていては集中できないというのも尤もであり、仕方なしに体を起こした。  風呂を上がると、猫は毛布に丸まって寝ていた。飼い主が置いていった、普段から猫が使っている毛布。要するに安心毛布だ。猫はよくこれに包まってリラックスしている。馨は顔を綻ばせ、眠る猫にそっと近付いた。 「りょーまぁ、見てみぃ。トラ、寝ちゅう。猫は寝る子ち、ほんまじゃのう」 「僕が寄ると起きちゃうから。遠慮しとくよ」 「えー、こがぁにかぁいいのに」  トラ、と馨が呼ぶと、猫は薄目を開けて緩く尻尾を振る。返事をしているみたいだ。馨は嬉しそうだが、遼真は複雑な気分になる。先に一人で寝室へ行き、ベッドに入って本を読んだ。  しばらくして、馨も寝室にやってくる。猫と遊んでいたらしく、パジャマが毛だらけだった。そのまま寝ようとするので、遼真はコロコロで毛を取ってやる。 「すまん」 「いいよ」 「りょーま、拗ねちゅう?」 「まさか。どうして?」 「わしばっかりトラに好かれちゅうし、さっきも邪魔されたき……」 「それくらいで拗ねないよ。まぁ邪魔されたのは事実だし、僕の方が付き合い長いはずなのにどうしてってのは思うけど……」  コロコロされて綺麗になった馨は布団に潜り込んだ。先ほどの続きとばかりに遼真の腕に抱きついて甘える。 「にゃあにゃあ、明日はずっと家にいとうせ」 「うん。どうせ予定もないし」 「ほいたら、今晩はこじゃんち夜更かしできるにゃあ」 「夜更かしして何するつもり」 「いけずぅ。わかっちゅうくせに」  馨は唇を尖らせ、ゆっくりと顔を寄せる。やっと二人の時間を迎えられるのか、と思ったのも束の間、カリカリとドアを引っ掻く音が聞こえた。馨の意識はすぐさまドアの外へと向いてしまう。ベッドを降りてドアを開けると、案の定猫が座っていた。 「トラぁ、何じゃおまん、寝たがやなかったがか」  馨はしゃがみ、猫の頭を撫でた。足下に落ちていた、おそらく猫が自分で拾って持ってきたであろう猫じゃらしを手に取ると、猫は馨の足にすりすりと纏わり付く。 「りょーまぁ、こいつ、まだ遊び足らんち」  馨は猫じゃらしを床に這わせて素早く動かす。猫は元気いっぱいに飛び掛かり、転げ回り、走り回った。馨もだんだん熱が入り、猫じゃらしの動きはどんどん激しくなる。そうしている間に夜は更けて、遼真はいつのまにか眠ってしまった。    *    二週間はあっという間に過ぎた。飼い主は無事出張から帰り、猫も無事自分の家へと帰っていった。迎えにきた飼い主に対し、猫は始めツンツンした態度を取っていたが、すぐに甘えてじゃれついて、撫でられては喉をゴロゴロ鳴らしていた。  この二週間、何だかんだで猫中心の生活になってしまった。遼真は毎日早めに仕事を切り上げて帰り、馨もバイト等控えて家におり、休日は一度も出かけず、夜は猫と遊ぶのに忙しかった。その甲斐あってか、最終的には遼真とも多少は仲良くなってくれたし、馨に至っては一緒にのんびりお昼寝までしてもらえる仲になった。  それだけに、別れは非常に寂しい。特に馨は、最後の日は朝からしょんぼりと元気がなく、一日中猫と戯れて過ごし、猫が帰ってしまってからは布団に潜り込んでいじけた。 「にゃあ、馨ちゃん。元気出してよ」 「……トラ、あがいにわしに懐いちょったのに……」 「飼い主さんが一番好きなんだから、しょうがないよ」 「けんど、ずっと一緒におったのに……いっぱい撫でちゃったのに……もふもふで気持ちえかったのに……もう会えんがか……」  いじける馨を遼真は布団の上から撫でて慰めた。 「馨ちゃん、猫好きだったんだね」 「……いんや、わしゃ犬派。昔、飼うちょったき」 「そういえばそうやったね」  馨の実家では昔犬を飼っていた。野良の子犬を拾ってきて番犬代わりとしたもので、藁を敷いた手作りの犬小屋に住まわせていた。適当に夕飯の残り物などを食わせていたが、案外丈夫で長生きした。 「うちは昔、猫飼ってたよ」 「初耳じゃ」 「うん。元々鼠捕り要員で飼ってたんだけど、僕が生まれる前にどこかへいなくなっちゃったんだって。首輪に鈴つけてさ、庭とか自由に歩き回って、冬はいつも炬燵にいたし、布団に潜り込んできたり、縁側で日向ぼっこしたりして、かわいかったらしいよ」 「……そりゃあ、一遍会うてみたかったのう」 「僕もだよ」  馨は布団に潜り込んだまま身動ぐ。頭まで潜っているから声がくぐもって聞こえる。 「馨ちゃんは、もしも将来ペットを飼うなら、犬と猫どっちがいい?」 「……どっちでもえい」 「そっか。僕は犬かなぁ。一緒にお散歩したり、ボール投げて遊んだりしたい」 「ほいたら、日本の犬がえいにゃあ。耳が立っちょって、毛のふさふさしちゅうががえい」 「大きすぎてもあれだけど、小さすぎても物足りないっていうかね」 「抱き枕ばぁある方がえいにゃ。広ぉいベッドで添い寝したい」  馨は布団を捲り、こそっと顔を覗かせた。遼真はにこりと笑いかける。 「やっと出てきた」 「……別に、そがぁに寂しがりやせんき」 「わかってるよ」 「……わし、そがぁに女々しゅうないき」 「わかってるって」  猫との別れを惜しんで玄関先で涙ぐんでいたのだから十分女々しいが、遼真は野暮な指摘はせず、ただ優しく馨の頭を撫でた。

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