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第九章 永い雨 1 冷戦

 今年の入梅は遅かったが、以来毎日飽きずに雨が降り続いている。遼真は今夜も背広を濡らして帰宅した。然程遅い時刻ではなかったのに部屋は既に真っ暗で、出迎えはない。いまだ開けられずにいる寄木細工の絡繰り箱が、棚にひっそり佇んでいる。遼真は鍋のカレーを温めて食べた。  事の発端は二週間前だ。その日も朝から雨だった。青いはずの空は重苦しい鈍色の雲に覆われ、寒々しい雨が断続的に降ったり止んだりする、気が滅入るような天候だった。じめじめと陰鬱な天気は夜まで続き、帰る頃には土砂降りになった。 「秋から海外赴任が決まったんだ」  浮き立った調子で遼真は告げた。対して、馨は死刑宣告でもされたかのような顔をする。 「本当はもっと先の予定だったんだけどね。たぶん三年は帰れないと思う。でも初めて行く国だし、きっと楽し――」 「ほんで? わしはどうなる?」 「もちろん一緒に……」  遼真が言うと、馨はテーブルを拳で叩いて立ち上がった。 「そがな知らん国、わしは行けん」 「けど」 「行けんちゅうたら行けん。おまんも行きなや、そがなとこ」 「それはできないよ。僕は行きたい」 「……ほいたらもう知らん。勝手にしぃ」  それきり、まともに会話していない。話どころか、顔すらほとんど合わせていない。遼真が帰ってくる頃には馨は既に就寝しているし、休みの日は朝から晩までどこかへ出かけている。おそらく土曜日は道場へ、日曜は競馬に精を出しているのだろう。遼真も鉢合わせるのが気まずくて、道場へはしばらく足を運んでいない。  馨が怒るのも――怒ると一言で片付けていいものか悩ましいが――無理はない。この町で築いてきたものを全て捨て去って、知らない土地でまた一からやり直すのはどれほどの困難か。しかも日本とは気候も習俗も違う、言葉はもちろん通じない、治安や衛生面でも不安の残る国だ。一緒に来てほしいなどと気軽に言うべきでなかった、と遼真は反省した。  そもそも、結婚でもしていればいざ知らず、同棲しているだけの恋人を帯同するのは難しい。結婚していれば、様々な手当や補助が付いたり、手厚いサポートを受けられたりするのだが、そうでない場合はビザを取るのも一苦労だ。  このままいくと、単身赴任ということになる――一応独身なので単身も何もないのだが――。とはいえ、年に数回程度なら会えるだろう。お互い行き来すれば三年なんてすぐ過ぎる。そう提案してみたが、馨は全く取り合ってくれない。怒っているのか悲しんでいるのかよくわからない複雑な表情で、ただ俯いていた。 「……おまんが行かなんだら済む話やか。行きなや、そがな遠い国」 「それはできないんだよ。僕がどんな仕事してるか知ってるくせに。馨ちゃんだって、いずれこうなるってわかってただろう?」 「知らんわ、そがなん。一っ言も聞いちゃあせん」  議論は平行線を辿るばかりで決して交わらない。その上、馨はすぐに自棄酒しては不貞寝するので、遼真が話しかける余地もないのだった。そのうち梅雨が明けても、依然として家庭内別居は続く。  今夜は近所の河川敷で花火大会があった。いくら誘っても馨はそっぽを向いたまま無視を決め込むので、遼真は仕方なく一人で河川敷まで出かけた。家にいてもよかったのだが、息の詰まる空間に耐えられなかった。しかし独りで見る花火ほど切ないものもない。訳のわからない動画配信者にカメラを向けられたりして、とにかく散々だった。  寄り道してマンションに帰ると、馨は灯りもつけずに窓辺に座ってぼんやりと空を眺めていた。遼真が帰ったのに気づくとすっくと立ち上がり、さっと寝室に引っ込んだ。目元に光るものが見えて、遼真はまた気分が重くなった。鉛を詰め込まれたみたいに、ずっしりと体が重たい。  そんな状態でも、お盆には一応一緒に帰省する。故郷までは飛行機でひとっ飛びである。日本は狭い。予約が遅かったため席はばらばらになったが、気を遣わずに済んで却ってよかった。 「二人して浮かん顔やねぇ。どういたがよ」  今年も迎えに来てくれた遼真の母が言う。 「別に、何ちゃやないよ」 「嘘言いなや。どうせあれやろ。どっちが窓際座るかちゅうて、揉めたがやろ」 「そがな子供みたぁな喧嘩せんよ……」  遼真は呆れて返す。車内で馨は終始だんまりとして、流れていく景色をただ見ていた。  結局まともな会話もないまま馨を降ろし、自動車は遼真の実家へ。一年ぶりの実家だ。両親も祖父も健在だった。家の中も、多少物が片付けられていたが、以前とあまり変わりない。昔付けた柱の傷や、ほっとするイ草の匂い。なんだか懐古に浸ってしまう。 「今年は、前より長うおれるがやね?」 「うん。有給もろたき」 「ほいたら、ねぇ、お父ちゃんのお知り合いの娘さんでえい人おるがやけど」 「またその話……見合いはせんち言うたやか」 「けど、ねぇ、あんたももうえい歳ながやき」 「せん言うたらせん」 「まぁ、強情やねぇ」  母はあの頃よりも口うるさく、頑固になった。歳のせいか。しかし無理強いはしてこないからマシな方だろう。  昨年と違い、馨と村を歩き回ることはしなかった。実家で母の手料理を食べ――素麺と冷やし中華の比率が異様に高い――おやつにスイカやトウモロコシを食べ、風鈴の音をバックに昼寝をして過ごした。冷房がない夏など、都会に住んでいる時は考えられなかったが、来てみると案外乗り切れるものだ。伝統的な日本家屋なので、風が吹けば涼しい。 「そういえば、今晩は盆踊りやったね。あんた、行ってきぃや。浴衣出しちゃろか?」 「いや、えいよ。行かん」 「そう。ほいじゃ、そろそろおやつにしようかいね」  盆踊りといっても村祭りとは違い、小学校の校庭で行われる子供向けのレクリエーションのようなものだ。遼真達が子供の頃から行われていたが、年々派手になっているらしい。露店も出るそうだ。馨が行くなら行ってもいいが、どうせ独りでは楽しくない。おそらく母は馨と一緒に行くことを想定して勧めてきたのだろうが、残念ながらそうもいかないのだ。  今日のおやつはところてんだった。この地域では酢醤油でも黒蜜でもなく、麺つゆをかけて食べる。冷たくて喉越しもよく、薬味を足すとさらにさっぱりとして旨い。昔から、おやつとしてよく食べていた。  遼真がところてんをつるつる啜っていると、突然玄関のチャイムが鳴った。田舎では珍しいことだ。地元の人ならばお互い顔馴染みだから、わざわざチャイムなんて鳴らさず勝手に扉を開けて入ってくるはずなのに。開いちゅうよ、と言いつつ、母が扉を開ける。ガラガラと音が鳴る、昔風の引き戸である。 「あらぁ、馨ちゃん」  声が聞こえ、遼真は口の中のものを噴き出した。酢で咽せただけだ。動揺しているわけではない。 「……りょーま、おりますか」 「おるよ。今茶の間でおやつ食いよる。せっかく来たがやき、馨ちゃんも食うかえ? しゃしゃん用意するき」 「……ほいたら、いただきます」  などと会話が聞こえた後、母は台所へ、馨は遼真のいる茶の間へとやってきた。何も言わず、俯きがちに遼真の向かいに座る。なぜか浴衣を着ていた。シンプルな紺地の浴衣に白い帯が映えている。足袋は履かず、素足だった。普段なら絶対胡坐を掻くところだが、馨はなぜかきっちり正座をしてところてんを食べた。つるつる啜るが、あまり音は立てない。 「ところで馨ちゃん。その恰好、ひょっと盆踊りに行くがかえ? えいお着物やねぇ」 「はい。昔より豪華になっちゅうち聞いたき、見てみとうて」 「ほいたら遼真、あんたも馨ちゃんと一緒に行きぃや」 「いや、僕は――」  遼真が断ろうとすると、遮るようにして馨が割って入った。 「元々そんつもりで来たがです。遼真をもろてもえいですか」  馨は遼真ではなく母の方を見て言った。母はよくわからないという風に首を傾げて笑い、でも盆踊りにはまだ早すぎるんじゃないかと言った。 「早うないです。わし、まだせないかんことがありますき。それをしてからやないと、どこへも行かれん」  思い詰めたような顔で、馨は立ち上がった。茶の間を出て、玄関まで行って、また茶の間へ戻ってきて、廊下から覗くようにじっと遼真を見る。それでようやく自分が呼ばれていることに気づき、遼真も慌てて立ち上がってサンダルを突っかけたのだった。

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