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第8話 苦手
「お前、最近イケメンと仲良いよな」
「……黒澤な。別に、部屋が隣だから出る時間とか被るだけだよ」
同じ学部、サークルに所属する友人、伊藤 昴 に、言われた言葉に誠は思わず、ギクリとした。 別に黒澤と仲が良いことを隠しているわけではない。でも、誠と黒澤では属性が違う。そんな自分達が仲良くしていると思われるのは、なんだかめんどくさく感じるのだ。
だが、そう思っているのは誠だけのようだった。黒澤は、共に一限を取っている水曜と金曜は毎朝、誠の部屋の前まで迎えに来るようになった。
誠が一度、「朝が苦手で、起きれない」とぼやいたのを黒澤は聞き逃さず、「じゃあ起こしてあげる」とアラーム代わりにピンポンを鳴らすようになっていたのだ。
「ふーん。まぁ、なんでもいいけど」
「それより、昴、今日の課題終わったのかよ? 昨日散々焦ってたけど」
自分で聞いといてそれかよ、と思いつつも、誠は大学生らしい話題に転換する。
「いや、そうなんだよ! 結局終わんなかったの! お願い、少し見せて」
「しょうがねぇーな。チョコソフト奢りな」
「ほんと神! 誠様!」
昴は調子良く手を合わせ、誠を煽てる。そんな昴に誠は何の感情も抱かない。
昴とは入学式で仲良くなり、取っている授業もほとんど同じだ。サークルも昴に誘われ同じところに入ったが、特別仲が良いというわけでもない。
言うならば、お互い都合の良い関係だ。さっきみたいに課題を見せ合ったり、代返したり、上っ面の浅い関係を続けている。
でも大学生なんて大体がそんな感じだし、特に不満はなかった。むしろ深く詮索されないのは楽だし、疲れなかった。こうやって、浅く広く人間関係を作っていけば、きっと過去のトラウマなんて忘れられる。
「あ、そういえばさ、この前言ってた猫のやつ、俺の姉貴が写真見たいって」
「えっ」
実家暮らしで兄弟も多い昴には一度、猫を引き取れないか、と聞いたことがあった。しかし、その時は「妹が一人、猫アレルギーだから」と断られていた。
「いや、一番上の姉貴が結婚してさ、もうすぐ出てくんだわ。それでペット欲しいって言ってて」
「……お姉さん、めでたいな。今、写真送るわ」
誠は一瞬言葉を詰まらせたものの、スマホを開き、すっかり増えたポツの写真から、とっておきの一枚を厳選し、昴に送った。
「サンキュー。姉貴から返事きたら、また連絡するな」
「うん。ありがと」
ーポツ、新婚さんに飼われるのか……可愛がってくれそうで、いいじゃん。
そう思っているはずなのに、なぜか心臓に刺すような痛みを感じた。
帰宅するとすぐにインターホンが鳴った。モニターで確認すると、予想通り満面の笑みの黒澤が立っていた。
「また来たのかよ」
そう言いながらも、とりあえず扉を開け、部屋にあげてやる。
「新作を入手しました」
そう言う黒澤の右手には、細い棒の先端に、ふわふわの毛で作られた鼠が付いた猫用のおもちゃが握られていた。そして、左手には「夏季限定!」と書かれたチョコレート菓子が握られている。
なぜだか最近、黒澤はポツの餌やオモチャだけではなく、自分にもお菓子、主にチョコレートを買ってくるようになっていた。
「また買ってきたの。てかなんで俺にまで……」
「志田のチョコレート食べてるときの幸せそうな顔、好きなんだもん」
「お、お前は! すぐそういうこと言うなよ!」
そう言いながらも、相変わらず誠の顔は赤くなってしまう。「好き」という言葉は何度言われても慣れず、誠の身体を熱くさせる。その様子を見て、黒澤はいつも楽しそうにくすくすと笑っている。
「笑ってんじゃねぇ! 太ったら黒澤のせいだからな」
「志田はもうちょい肉つけたほうが良いよ」
「余計なお世話」
「でもポツは運動しないと、と思ってこいつを買ってきたんですよ」
そう言いながら、黒澤は先程のオモチャをせっせと袋から出し始めた。確かに最近のポツは食欲がすごい。そして初めの頃の警戒心なんてどこへやら。一日の大半を、部屋の至る所で手足を豪快に伸ばし寝て過ごしている。
現に今も机の真下で、ぐでーっと身体を横向きに倒して寝ている。そんなポツを誠は愛おしく思う。
ポツの無防備な姿は、誠への信頼度を表しているかのようで、ポツのだらけている姿を見る度、誠の心は暖かくなるのだ。
黒澤は取り出したオモチャを慣れた手つきで揺らし出した。左右に揺さぶってみたり、上下に動かしたり。その様子をキョロキョロとポツは必死に目で追っている。そして、ピタッと、黒澤が手の動きを止めた瞬間、見たこともないような速い動きで、ポツが鼠に飛びかかる。
一度飛びかかってからは、ポツはもうすっかり夢中になり、一心不乱に鼠を追いかけた。ポツの顔つきは完全にハンターだ。
「……ふっ! ポツの動き、すげぇー速い! 目がめっちゃ真剣。てか黒澤の手の動かし方もプロすぎるだろっ!」
誠は笑いながら二人の様子を眺めていた。
こんな時、ふと心の底から楽しい時間だな、と感じる。
今朝の昴への冷めた感じとはまるで違う。ポツと黒澤と過ごす時間は暖かくて、優しい時間だった。しかし、同時にどこか儚い時間でもあった。
綿菓子のように、甘い時間はすぐに溶けてなくなってしまうのではないかという、漠然とした不安。そんな風に悲しくなる時間でもあった。
「はぁー。俺もめっちゃ疲れた」
少し息を切らしながら、黒澤は座椅子に腰掛ける。ポツも暑くなったのか、部屋のフローリング部分で背中を上下させながらふんぞり返って寝ている。
「お茶入れてくるな」
キッチンに向かい、すっかり黒澤用になった、オレンジ色のグラスに、たっぷりの氷と烏龍茶を注いでやる。それと先程もらったチョコレートを机へと持っていく。
「ありがと」
よほど喉が乾いていたのか、そう言うと同時に、黒澤は勢いよくお茶を飲み出す。ゴクリ、ゴクリと気持ちの良い音を立て、黒澤の骨張った首に浮き上がっている一つのコブが、激しく上下に動く。
「雨、すごいな」
誠は何となく首元から目を逸らし、窓の方を見ながら呟いた。どうやら、今日の夕方から台風が接近しているらしい。先ほどから風の音と雨の音で、外が騒がしくなっている。
「ほんとだ! 今日バイトなくてよかった」
「どこでバイトしてんだっけ」
「駅前のカフェ」
「うわっ、ぽいわー」
「え、それは褒め言葉だよね?」
「どうでしょうね」
誠は微笑を浮かべながら、黒澤から顔を横にふいっと背ける。
すると黒澤は「誤魔化すなよ!」と言いながら、誠の動きについて来るように、机から身を乗り出し、誠の表情を至近距離で伺ってくる。
最近の悩みはこれだ。黒澤が馬鹿げたアプローチ宣言をしてから、誠に対しての距離がとにかく近い。今みたいに、物理的にはもちろんだが、すぐに好きと言ってきたり、朝迎えに来たりなど、精神的にもすごく近いのだ。
誠は近頃、そんな黒澤の行動にどぎまぎしないようにと、心を砕いている。
「お、お前、いちいち近い!」
「あ、ごめんごめん。つい」
「おい、ついってなん……」
喝を入れてやろうと思った瞬間、誠の言葉は闇に飲み込まれた。
「あれ、停電かな」
黒澤は落ち着いた声で言う。防雨と防風や影響で一時、停電しているようだ。心の中ではそのように冷静に理解しているのに対し、誠の身体には嫌な汗が滲み出し始めていた。
暗闇と騒がしい外の音。誠の頭には鮮明に、嫌な思い出が蘇ってくる。
高校2年生の夏。最も誠へのいじめが酷かった時期だ。放課後、誠は体育倉庫に呼び出された。どうせストレス発散に殴られるか、金をせびられるかのどっちかだろうと思い、重い足取りで誠は体育倉庫に向かった。
案の定、ストレス発散に何発か蹴られ、財布にある金を抜き取られた。誠は抵抗するだけ無駄なことを知っており、声も上げずにただ堪えていた。
しかし、それは彼らには逆効果だった。抵抗しない誠に「つまんねー!」と言いながら、彼らはさらに怒りを募らせた。そして、信じられないことを言い放つ。
【お前、今日一日ここで反省してな。明日からは、ちゃんと声出ししろよ】
そう言って、ガシャンッと重い鉄の扉を閉め、鍵をかけた。まさかと思い、誠は扉に駆け寄った。全力で腕に力を入れ開けようと試みたが、扉はびくともしなかった。
その日の夜は台風だった。暗闇の中で、屋根に打ち付ける強い雨の音。扉を揺らす強い風の音。
全てが恐怖の対象だった。誠は体育座りで必死に一晩を耐えた。
「……だ、志田!」
「……っ!」
黒澤の声で我に帰った誠は、暴れている心臓を宥めようと必死に深呼吸した。しかし、身体は小刻みに震え、吐き気と頭痛が襲ってくる。
返事をしないと黒澤が不審に思うだろう。でも今声を出せば、震えた情けない声になるに違いない。
とにかく誠は心の中で大丈夫、大丈夫と唱え続けた。
「志田、大丈夫? もしかして暗いの苦手?」
そんな問いかけにも誠は答えることができない。荒い息遣いが聞こえないようにと、ただ必死に祈る。
その時、右手に温もりを感じた。
骨張っているが、滑らかで細長い指の感触。
黒澤の手だ。
誠の手は冷え切り、震えている。しかし、黒澤は何も言わず、ただ温もりを与え続けてくれる。
ふと、膝にも温もりを感じた。驚いて反対の手で確かめると、馴染んだ手触りの、整った毛並みを感じた。ポツが膝の上に乗っているのだ。
誠はなぜかとても泣きたくなった。手と膝だけではなく、心も暖かかった。
停電は本当に一時的なものだったようで、すぐに部屋に明かりが灯る。ほっとしたと同時に、誠は自分が涙目なことを思い出し、慌てて下を向く。
「お、ついた」
部屋を見渡し、電気が回復したことを確認した黒澤は、今度は誠に視線を向けた。
普通にしないと変に思われてしまう。
そう思うものの、誠の身体は恐怖の名残で、未だに震え、顔も真っ青のままだ。
そんな誠の様子を見て、黒澤は重ねていた手を離した。その瞬間、また冷たい雨風が吹き付けて来る感覚に陥りそうになる。
しかし次の瞬間、身体全体に温もりを感じた。驚いて、思わず顔を上げると、黒澤が壊れ物を扱うかのような優しい力で、誠を抱きしめていた。
「……え?」
「なんか寒そうだから」
黒澤はそれだけ言うと、後は何も言わなかった。誠の身体は急激に熱を取り戻す。むしろ、全身から火が出そうなほど熱い。心臓が激しく音を立てている。
そんな心臓の音をかき消すかのように、「ニャー!」と大きな鳴き声が部屋に響いた。
黒澤と誠に挟まれる形になった、膝の上の主が不満そうな声を上げたのだ。
「あ、ごめん。ポツ居たのか」
黒澤はそう言いながら、ゆっくりと名残惜しそうに、誠から離れた。心なしか、やや顔が赤いような気がした。
黒澤に限って、そんなわけないだろうが。
生まれた沈黙がなんだか気恥ずかしくて、誠は必死に言葉を絞り出す。
「あの……。迷惑かけてごめん。ちょっと暗いの苦手で」
正確に言うと、暗いのと天候が悪いのが被ると、なのだが、説明するのも億劫なので言わない。
「そっかそっか。少し顔色よくなったみたいで安心した」
黒澤は微笑みながらそう言うと、「ねぇ、知ってる?」と今度は楽しそうに話し出す。
「猫ってさ、視力は人間よりうんと悪いし、色の見え方も違うんだって。赤色とかは認識できないらしい。でもね、逆に暗闇では人間より、よく見えるんだって」
「そうなんだ。全然知らなかった」
黒澤の猫の知識の深さには本当に驚かされる。でも、なぜ今そんな話をするのだろうか。
そんな誠の心を読んだかのように、黒澤は続ける。
「だから、暗闇でもポツが居れば大丈夫だよ。今も膝に乗って、志田のこと助けてくれたんだよ」
そう言って、黒澤が誠の膝の上のポツを見つめると、ポツは得意げに顎を上げて「ニャー!」と元気よく鳴いた。
黒澤は自分のこと安心させようとしてくれたのだろう。そう思うと、再び心に暖かいものを感じる。
でも、黒澤の言うことは少し違っている。
ーだって、暗闇から救ってくれたのはポツだけじゃないから……。
誠が落ち着いたのを確認すると、気を遣ってくれたのか、黒澤は足早に自分の部屋へと戻っていった。
一人になった部屋で、誠はまだ身体に残っている温もりを、愛おしく感じた。
いつか自分も黒澤を助けることが出来たらいい、そんな風に思った。
その機会は意外にも、翌日の朝、唐突に訪れた。
ピンポーン ピンポーン ピンポーン
ー誰だ、こんな時間に……。
早朝に響く、インターホンの音に、誠は布団の中で芋虫みたいにモゾモゾしながら、居留守を決め込んだ。
ピンポーン ピンポーン ピンポーン
それでも、インターホンの音が鳴り止むことはなく、誠は半ギレしながらも、渋々重い身体を起こした。眉間に皺を寄せながら、非常識な野郎をモニターで確認する。
そこには半泣きの黒澤が立っていた。さすがに誠も怒りより驚きが勝り、慌てて扉を開けたる。
「黒澤、どうした?」
「志田! 助けて! 部屋に奴が出た!」
「や、奴⁉︎」
誠はなんのことか、ちんぷんかんぷんだったが、とりあえず言われるがまま、黒澤の部屋へと足を踏み入れた。意外にも、黒澤の部屋に入るのは初めてだ。
黒澤の部屋は、なんというか男らしい部屋だった。机や棚は黒で揃えられ、洒落た感じにしているが、机の上にはお菓子のゴミや、ペットボトルのゴミが、床には脱ぎっぱなしの服などが散乱している。
部屋を見渡した感じでは、特に何かが居る気配は無い。
ーえ、まさか俺には見えない類のやつとか言わないよな……?
ドアを開けたまま、部屋に入ることすらしないで、へっぴり腰で外に居る黒澤に、誠は恐る恐る問いかける。
「黒澤、奴って何? どこに居るの?」
すると黒澤はゴミの広がる机の上を指さした。そこへ誠が視線を向けると、カサ、カサという音が聞こえた。音のあった辺りのゴミを漁ると、そこには黒く光る、素早い動きの奴が居た。
誠は近くに落ちていた雑誌を拾って丸め、素早い動きで、スパーンっと奴を仕留める。
3枚重ねのティッシュで亡骸を拾うと、ベランダから外へと投げた。誠は台所を借り、手を洗うと、やっと部屋に入ってきた黒澤を見つめた。
「え、もしかして奴ってゴキブリのこと?」
「そう……。俺、虫無理なの。てか、志田すごい! 何あの流れるような動き!」
黒澤は目を輝かせながら、小さくパチパチと拍手をする。
「……ふっ、はははっ! お前、虫で半泣きになるとか意外すぎ!」
「ちょ、馬鹿にしないでよ!」
黒澤は少し顔を赤らめながら、抗議する。いつもとは反対のような立場になり、さらに笑いが込み上げてくる。
「いや、でも本当に助かった。引っ越してから一回も出てなかったから完全に油断してた……。志田が居てくれて本当によかった」
何だか思っていた助けるとは違ったが、黒澤の安堵した様子を見ると悪い気はしない。
「別にこれくらいなんでもない。また虫出たら、全然声かけてくれていいよ」
「え! ほんと! ありがたすぎる」
心底嬉そうに言う黒澤の様子を見て、誠の心は弾んだ。こんな些細なことだが、誰かの役に立てることは嬉しい。
誠は自分の部屋に戻ると、鼻歌交じりに再び布団へと入った。
そんな誠の様子を察したのか、布団に入ってきたポツもご機嫌そうに、尻尾を横に大きく、ゆっくりと揺らしていた。
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