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「キスなんかしないで」
――ガチャ、
「よぉ千尋。どこ行ってた」
「……ちょっと、買い物してきただけ」
「ふーん。おいで」
「……」
優しい声と、優しい笑顔。今日は機嫌が良いみたい。引き込まれるように抱きしめられれば、心地よい翼の香りに包まれる。
そして、それ以上に強く、嫌でも押し付けられる女の香り。
この香り、覚えがあるな。ああ、さっきエレベーターの前ですれ違った女の人だ。今日はあの人だったんだ。だからこんな機嫌良いんだ。綺麗な人だったもん。
くちゅ、
「ン、ぁ……つば、さ……待って、」
「ん?どうした?」
(女と重ねたその唇で、キスなんかしないで。)
「……シャワー、浴びてくる……」
「いいよ。待ってるわ」
抱きしめてくる腕からスルリと抜けて、足早にバスルームへと向かう。甘い視線を感じたが、絶対に振り返らない。振り返れない。優しく微笑まれたら、ただただ、泣きそうになるから。
ああ、ここも駄目だ、
まだ温かく濡れたバスルーム。脱衣所には、わざとらしく残された見覚えのない華奢なネックレス。
「っ……う……」
翼と女性の甘い香りが混ざるそこで、声を殺して泣いた。
逃げ場なんて、無い。
大好きな小説に出てくる主人公。強くて、素直で、可愛くて。優しい彼氏に支えられて、愛し合って、どんな困難も二人で乗り越えて、いつも幸せそうに笑ってる。そんなキラキラした恋愛がしたかった。
じゃあいつからおかしくなった?
『お前しつこいよ? ただの女友達じゃん』
『いちいち口出さないでくれる?』
『痛い? なら黙って言う事聞けよ』
『また殴られたいんだ』
『教育してやるよ』
いつから、なんて解らない。だってもしかしたら、最初から恋人なんかじゃなかったのかもしれない。
ジャキン、裁断用のハサミで切られたネクタイがベッドの上にスルリと落ちる。堅く縛られていた手首には真っ赤な跡が残り、擦れて血が滲んでいた。
「ほらまた血ぃ出てる。だから暴れんなっつってんじゃん。何回目だよ」
「……ごめん、なさい……」
「怪しまれるから傷治るまで仕事断れよ」
「うん……」
まだ痺れて感覚が戻らない手首をさすりながら、ぼんやりと顔を上げる。
今日はキス、してくれないんだ……
顔中に落とされる優しいキスは、セックスの後のご褒美。頑張ったね。うまく出来たね。いつもそう言って優しく抱きしめてくれるのに、目の前の翼はさっさと着替えて帰る準備を始めている。
「じゃあな、」
「……」
俺の返事も待たずにバタンと閉まるドア。
あんなに機嫌良かったのに。結局またいつも通り殴られた。きっと俺、うまく出来なかったんだ。翼を満足させてあげられなかったんだ。せっかく来てくれたのに。
ギュッと握りしめたシーツが皺を作る。
俺の前に、さっきまでここで抱かれていたあの人は、たくさんの愛を貰ったんだろうな。
「あ……仕事……」
またしばらく休むって電話しなきゃ。佐伯さんに電話しなきゃ。
佐伯さん、
もう随分顔も見ていない。自然と携帯の画面にポタポタと涙が落ちる。
毎晩のように抱かれている身体はあちこちズキズキ痛み、殴られた痣も縛られた跡もなかなか消えない。そんなんでカメラの前に立てる筈も無く。
俺、何してんだろう……
この先もこのまま仕事断り続けるの? そんなの駄目だよ。佐伯さんに失望されちゃう。ううん、きっともうとっくに失望されてる。佐伯さんにも翼にも、俺は見捨てられてる。
「ふ、うぅ……っ、」
どうしたらいいのか、わからない。ただただ、くるしい。
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