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「早く、忘れたい」

「千尋、まだ早くない? 無理しなくていいんだよ?」 「ううん、やる」 「急ぐ必要無いし、体力だってまだ戻ってないと思うし。ただでさえ元から体力無いのに……」 「うるさいっ! 佐伯さんは黙って腰振ってればいいの!」 「うわ、何そのセリフ最高。俺もう完勃起だわ」 「え、何そのセリフ最低。佐伯さんってそんな変態だったっけ……」  そりゃ千尋相手だし。変態にもなりますわ。でもそれとこれとは話が違うけど。  必死な顔でこちらに詰め寄る千尋にぴしゃりと言い放つ。 「とにかく、千尋の体と心が完全に復活するまでしばらく撮影はしません」 「もう復活した! 傷も消えたし元気だし!」 「……結城翼、」 「……っ……!」  名前を口にしただけでびくりと揺れる肩と、一瞬で青ざめる顔。  元気、だなんて。まだ別れから立ち直れてもいないくせに。 「無理しちゃ駄目。今すぐ全部元通りにしろなんて誰も言ってないんだから」 「で、でも……! ずっと撮影サボってたし、働かなきゃクビになっちゃう」 「だからそれは上司も回復待ってくれるって。休む時間はまだまだあるよ」 「だ、だけど……!」  なんだろう。やけに粘るな。  部屋を出ようとした足を止めて振り返れば、泣きそうに歪んだ顔と目が合って、 「早く、忘れたい……っ、身体が覚えてる翼を、全部消したい……っ!」 「……っ……」  俺が忘れさせてやる。違う。これじゃない。  あんな奴のために泣くな。違う。これでもなくて、なんだっけ。何て言えば良いんだっけ。 俺にしろ。幸せにするから。全部塗り替えてあげる。好きだ。抱き締めたい。  違う。違う。どれも違う。思い出した。これだ。 「……一応カメラは回すけど、ただのリハビリだからね?」 「……! うんっ! ありがとうございます!」  ただのリハビリ。自分にもそう言い聞かせながら、カメラに手を伸ばした。 ―――――― 「ねぇ、やっぱり今日は……」 「大丈夫……大丈夫、だからっ、続けて……」  大丈夫、か。一向に立ち上がる気配の無いそれに丁寧に舌を這わせながら、ちらりと顔を覗き見れば、固く閉じられた目元には涙が浮かんでいて。  カタカタと震える指先をいたわるようにそっと触れてみれば、大袈裟なくらいにびくりと揺れる身体。 「……ッ! ご、ごめんなさい……!」 「いや、俺の方こそごめんね。驚かせちゃったね」  ごめんなさい、反射的にそんな言葉が出るなんて。あいつは教育と呼んでいたっけ。何をされていたかなんて容易に想像がつく。 「……ごめんね千尋。ちょっと嫌な事思い出させてもいい? 結城とのセックスは、気持ち良かった?」 「……っ……、」 「ごめんね。でも今全然気持ち良さそうじゃないからさ、もしかして結城が上手かったから俺じゃ物足りないのかなって」 「ちが、……ちがうっ……!」  ガタガタと震え始めた身体。ぎゅっと抱きしめてやると、泣きそうになりながらも言葉を繋いでくれる。 「翼の時はっ、気持ち良く、なかった……いたくて、こわかった……!」 「……うん、」 「佐伯さんは違うのに、さっきから……重なって、俺っ……ごめんなさい……!」 「ううん。千尋は悪くないよ」  とうとう零れた涙を掬いながら思考を巡らせる。結城の言っていた教育はいわゆる調教の事だと思っていたが、どうやら違うらしい。千尋は誰にも染まっていない。何も変わっていない。ただ暴力と恐怖でトラウマを植え付けられただけ。  ああ、良かった、安心した、なんて。どうしよう。こんな時に。嬉しくて笑いが零れそう、 「落ち着いた?」 「ん、……ごめんなさい、」 「すぐ泣くしすぐ謝るね。前はもうちょっと生意気だったのに」 「う……」 「ふふ、まあ不安定なのは今だけだろうし、これもゆっくり治していけばいいよ」  むくれる千尋の目元にキスを落とし、放置していたカメラに手を伸ばす。 「“本当にいいの?”」 「うん、大丈夫。カメラ回すの?」 「“緊張してるね。駄目じゃん、知らないお兄さんにのこのこ着いてきちゃ”」 「……?」  噛み合わない会話にきょとん、と首をかしげる千尋に、クスクスと笑みが零れる。 「“大丈夫。初めてだもんね。優しくするから”」 「佐伯さん?」 「“じゃあ、始めようか……”」 「……っ、あ……うそ……、」  カメラのスイッチを入れれば、何かに気付いて目を丸くする千尋が液晶に映る。 「“こういうのは初めて?”」  固まってしまった千尋に優しく微笑んであげると、我に返ったように慌ててうつむく。耳まで真っ赤。可愛い。 「っ……“は、はい…”」 「“名前は?”」 「“千尋…です…”」 「ふふ、あの時よりも顔赤いよ」 「なっ……! そ、そんな事覚えてない!」 「そう? 俺は覚えてるよ?」  真っ赤な顔で訴える千尋にそう微笑む。あの日の事は一言一句漏らさず、お互いの仕草や表情までもしっかり覚えている。  俺と千尋の世界がやっと繋がった、大切な日だから。

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