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遠い夏の思い出(3/4)
私が目を覚ましたのは、陽が傾きかけた頃だった。
カーテンの外の景色に、私は慌てて体を起こした。
「お目覚めですか」
ずっと付き添っていたのか、ベッド脇に寄せた椅子から、いつもの従者が立ち上がる。
「ああ、ごめん。心配をかけたね……」
朝早く起きてしまったための寝不足もあったのか、思ったより長く眠ってしまったらしい。
「どこか傷むところはありませんか?」
「大丈夫……。彼はどうしてる?」
私の質問に、従者は一瞬眉を寄せた。
艶やかな黒毛の従者は、角ばった眼鏡を両手でキチっと上げながら答える。
「シャヴィール様でしたら……」
言葉の終わりは、ノックの音にかき消された。
「私が」
という従者を制して、答える。
「はい」
「……俺だ。さっきは……。いや。……顔を見せてもらっても、いいだろうか」
彼の声に一瞬身構えてしまう。が、彼の声はとても力なく聞こえた。
あの、いつでも自信に満ち溢れたような彼の、こんなにしょんぼりとした声は初めて聞いたような気がする。
「どうぞ」
私の言葉に、従者はどこか渋々と扉を開けた。
「……さっきは、すまなかった……」
神の使いと呼ばれることすらある稀有な白い獅子が、しょんぼりと頭を下げる。
丸い耳も、その尻尾までもが項垂れていて、彼の反省は私にまっすぐ伝わってきた。
「いいえ、シャヴィール様は何も悪くありません。私の自己管理不足です」
答えて微笑む。
彼は許された事にホッとしたのか、耳がぴょこんと元気を取り戻す。
ゆっくりと頭を上げた彼は、私を白い瞳で……今は、窓から入る夕陽のせいでかオレンジがかった瞳でじっと見つめる。
私の、奥深くまでを見透かそうとしている様な、熱い瞳。
その何かを必死で求めるような瞳に、これ以上見つめられるのが怖くて、そっと目を逸らす。
彼は、低く唸るような声で求めた。
「……二人きりで、話がしたい」
黒毛の従者が、視線で首を振る。
そんな危険を冒すべきではないと。
私も、そう思う。頭ではわかっている。
けれど、心が彼を信じている。
答えが出せず逡巡する私の姿に、彼の瞳が悲しく揺れた。
「そうか……。困らせて、悪かった」
彼が背を向けようとする。
私は思わず答えていた。
「構いませんっ」
「!」
彼が慌てて振り返る。
その白い瞳にもう一度自分の姿が映ると、なぜかとてもホッとした。
刺さる視線にチラリと横を見れば、黒毛の従者が重苦しいほどの圧を放っている。
「その……夕食の時間まででしたら」
慌てて言葉を足す。
彼は大きく頷いて「もちろん」と答える。
黒毛の従者は眼鏡を両手で整えつつ「くれぐれも、お立場をお忘れなきよう」と囁いて扉の外に出た。
その言葉は、私だけでなく、彼にも向けた言葉だったのだろう。
外には彼の従者が控えていたようで、閉まる扉の向こうで挨拶らしきものが聞こえる。
完全に戸が閉まると、部屋には静寂が訪れた。
兎族は皆耳が良い。
そのため、プライバシー保護の観点から、一般的に部屋には全て防音処理がなされていた。
「隣に座っても?」
問われて、一瞬迷う。
隣と言われても、私が座っているのはまだベッドの上で、それでは……。
「……ダメか」
彼の耳としっぽが、しょんぼりと項垂れる。
よく見れば、髭もしょんぼりするようだ。
「い、いいえ、その、端でしたら……」
言いながら、ベッドの端に座り直すと、彼はそのすぐ隣に腰をかけた。
私よりもずっと体格の良い彼の体重がかかると、ベッドは深く沈み込み、私は危うく彼に寄りかかりそうになるのを何とか堪える。
「なんだ、来ないのか?」
彼が残念そうに広げた両手を引っ込める。
「な……!?」
言葉を失う私に、彼は続ける。
「昔は触らせてくれたのにな……」
やはりそうだ。
彼は私の事をアリエッタだと思っていない。
あの一週間、姉は彼と挨拶こそすれ、恥ずかしがって父や母の後ろに隠れてばかりで、手を繋ぐことすらなかった。
「もう俺の事は、嫌いになったのか?」
「………………え……?」
予想外の言葉に、頭が真っ白になる。
驚きに、ピンと立ち上がった耳に、彼は唇を寄せて囁いた。
「……お前、アンリだろ?」
「っ!!」
思わず叫びそうになった口を両手で押さえる。
彼はニヤリと満足げに笑うと私の顔を見ながら、そのまま耳元で囁く。
「俺がお前の事、間違えるはずない」
どう言うことかと視線で問うと、彼は私の髪をするりと持ち上げた。
「!?」
「ほら、ここに三つ並んだホクロがあるだろ」
首の後ろ側のホクロは、私にしかないものだ。
それを彼はあの日、確かに、見つけていた。
「……っ、何が、目的だ……」
外の彼等に聞こえないよう、小さな声で問う。
「目的……?」
彼は白い瞳をくるりと動かす。
「ふうん」と呟いた彼の声は、酷く寂しそうに聞こえた。
「そうだよな。俺がここで急に死んでも怪しまれるだろうしな」
彼の言う通りではある。
けれど、たとえそうなっても、それを揉み消せるだけの力がこの国にはあった。
それをおそらく、彼は分かっていない。
「黙っててやるよ」
ニヤリと悪戯っぽく笑って、彼は言った。
「お前が、俺のものになるんだったら、な」
「………………は?」
私の、あまりにも間の抜けた返事を、彼は気にする風もなく続ける。
「驚く事ないだろう? 俺とお前は、婚約してる」
「で、でも! 私は……その……女じゃない、から……」
私が必死で伝えた言葉は、私自身の心を切り裂いた。
そう。私は女ではない。
けれど、男だと言うには、この体は色々な物を失い過ぎていた。
どうしようもない悔しさに、両手を握り締める。
「そんなこと気にしてたのか」
彼はけろりと、まるで何でもないことのように言った。
「そんな事って!!」
私は思わず声を荒げて、慌てて小さくする。
「っ、……国にとって一番大事な事だ」
「そんなの、どうとでも誤魔化してやるよ」
私はもう一度驚いた。
誤魔化して、どうすると言うのだろうか。
彼は何と言っている?
彼が望んでいるのは、つまりは何だ?
この国を、裏から操ろうというのだろうか。
「……まだ何か、難しいこと考えてんのか?」
彼の苦笑するような声。
見上げれば、彼の白い瞳は夕陽のオレンジの中にわずかに夕闇を混ぜたような色を乗せて、優しげに細められていた。
それはまるで、愛しい人を見るような目で。
この国を狙っているようには、とても見えなくて……。
「……ヴィルは、何が欲しいの……?」
思わず、口から、本音が零れてしまった。
「お前は、何だと思ってるんだ?」
彼はなぜか、その質問をそのまま私に返してきた。
「この、国……とか?」
躊躇いながら何とか絞り出した言葉を、彼はあっさり却下する。
「そんなわけあるか」
「じゃあ、ええと……この国の……」
「国から離れろ」
言われて、私はまた驚く。
私を手に入れて、国に関係ないことなんて、一体何があると言うのか。
何もない。
あるはずがない。
私には、もう本当の名前も、体も、何も残ってないのだから。
途方に暮れた私に、彼はそっと囁いた。
「お前に、触れてもいいか?」
それは、あの日と同じ言葉だった。
彼の瞳はやはり優しくて、けれど今は、そこに縋るような必死さが混ざっている。
私は何故か、何も考えられないままに、コクリと頷いた。
彼は、あの日と同じように、私よりもずっと大きな手の、爪が全部引っ込んでいるのを確認してから、私の頬へと手を伸ばした。
ふわりとした毛に、ふにっと柔らかな肉球の感触。
私達の手には無いその感触に、びくりと肩が震える。
まさかそんな……。
そんなはず、あるわけない。
頭の中をそんな言葉がぐるぐると巡る。
彼は、目を細めながらゆっくりと顔を近付けて、そっと唇を重ねた。
厚くて柔らかい彼の唇。
それは、あの日と同じだった。
一瞬頭が真っ白になって、次に顔が真っ赤になる。
彼は唇を離すと、照れ臭そうにちょっとだけ笑って、それから私を抱き締めた。
「俺が欲しいのは、お前だけだ」
真剣な響きで告げられた言葉に、私は戸惑う。
そんなことを急に言われても、どうしたらいいのか全く分からない。
それに、彼には婚約を破棄してもらわなければ、彼の命が危ない。
「そんな……こと……」
私が、何とか彼の腕から逃れようともがくと、彼は、名残惜しそうにしつつも離してくれた。
白い瞳が、私を包むようにそっと見つめている。
ああ、彼は本当に、私を求めてくれているんだ。と、ようやく気付く。
それなのに、そんな彼が……。
このままでは、姉のように冷たく動かない体となってしまうのかと思うと、堪え切れず涙が溢れた。
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