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遠い夏の思い出(4/4)
「おわっ!? な、泣くほど嫌だった……のか……?」
彼が狼狽える。
「そうじゃない……けど……」
私を支えようとするその腕は、温かかった。
「私は……ヴィルに……何も、応えられない……」
私の耳には、彼がギリっと奥歯を噛み締めた音が、小さく聞こえた。
コンコンとノックの音。
いけない、こんな顔では……!!
答えるよりも先に黒毛の従者が扉を開け、私を一目見るなり、彼を突き飛ばした。
「待って!」
慌てて伸ばした私の手を、黒毛の従者はそっと下ろさせて、懐に入れた手を引き抜く。
そこには小さな銃が握られている。
「おいおい、いきなり過ぎないか?」
床の上では、銃口を向けられた彼が立ち上がりかけた姿勢のまま両手を挙げる。
「アリエッタ様に、何をなさったんですか」
従者はゾッとするような声で尋ねた。
「……乱暴なことはしていない」
ヴィルの言葉は、正しかった。
「私が……私が、勝手に泣き出しただけで、彼は何も……」
「危険ですので、アリエッタ様は下がっていてください」
従者は銃口を下げる気配がない。
この短気な従者は、いつも私に危害を加えようという者を即排除してしまう。
けれど、ヴィルは国の代表であり、私の婚約者だというのに、そんな事、許されるはずが……。
「こんなとこで俺を撃てば、お前も無事ではすまないだろう?」
ヴィルの落ち着いた声。
「アリエッタ様はこの国にとってなくてはならないお方。私の身など些細な事です。シャヴィール様ももうお分かりかと思いますが、今回貴方には婚約解消に頷いていただかなくては困るのです」
まさか……。と息を呑む。
まさか、従者は彼を脅すつもりで……?
「貴方がアリエッタ様との婚約を解消すると仰るのでしたら、この銃口を下ろしましょう。そうでないなら、私とここで死んでいただきます」
黒毛の従者は、いつもと変わらぬ声で、片手で銃を構えたまま、眼鏡を押さえた。
「……その要求は、呑めない」
ヴィルは銃口をまっすぐ見据えたまま、はっきり答えた。
「そうですか、それは残念です」
従者の指先に力が入る。
「だがこんなところで死ぬつもりはない!」
ヴィルは大きく後ろへ飛び、弾を避けた。
「俺は、アンリをまた笑顔にする!」
二発目が、ヴィルのたてがみを掠める。
「一生、幸せにするために来たんだ!!」
「ヴィル!!」
気付けば、私は駆け出していた。
ヴィルの前に立ち精一杯両腕を広げる。
それでも、私の小さな体では、大きなヴィルの体は隠し切れない。
「アンリ!?」
「……アリエッタ様、お下がりください」
「いやだ! 彼を殺すことは、私が許さない!」
従者の瞳が、いつも黒っぽい赤で表情の読めないその瞳が、大きく揺れた。
「アリエッタ様……」
「彼を殺すくらいなら、私を殺してほしい。悪いのは……皆を騙しているのは、私なんだから」
ぽろりと涙が溢れる。
「ヴィルには……幸せになってほしい……」
思わず溢した本音。
後ろから、ふかふかの毛の塊に抱かれて、私は彼に抱き付いた。
「ヴィルにだけは、生きていて、ほしい……」
私の願いなんて、それだけだったのに。
それすらも自分の力だけでは叶わない……。
「俺は、お前と一緒に幸せになるつもりなんだが?」
彼の声が、すごく近くで聞こえる。
「私も……私も、ヴィルと幸せに、なりた……ぃ」
そんな事、叶うはずもない、夢と呼ぶ事すらできない、幻だと思っていた。
この時までは。
従者は、ふぅ。とひとつため息をついた。
「……お二人のお気持ちはよく分かりました。後の事はお任せください」
銃を下げた従者は、居住まいを正し、そう告げると扉へ向かう。
「え……?」
私とヴィルは、突然の従者の言葉に顔を見合わせる。
キィと開いた扉の向こうで会話が始まった。
「終わったか?」
「……納得はいきませんが」
「お前、うちの主人に怪我させてないだろうな」
「当然ですよ。私の腕はご存知でしょう?」
二人の声を聞いて、ようやく気付く。
扉の外には、ヴィルの従者も居たはずだ。
防音がなされているとはいえ、銃声がすれば流石に入ってくるはずだ。
つまり、従者は、私達の心を確かめるために一芝居打ち、彼の従者は外で見張りをしていた……と言うことなのだろうか……?
「お二人とも、お食事はこちらのお部屋でよろしいですか?」
二人の従者に覗き込まれて、私とヴィルは無言で頷く。
パタン。と扉が閉まる。
一人は扉の前に残ったのか、一人分の足音が遠ざかって行くのを聞きながら、私とヴィルは顔を見合わせて笑った。
ヴィルは、私の頭を大きな手で撫でて「やっと笑ったな」と言った。
「お前の黒いの凄いな、あれ実弾だったぞ?」
「ヴィルの従者と知り合いだったのかな?」
「ああ、そういや学生時代の何とかって聞いた事があったな」
「ヴィル、たてがみ、ちょっと削れなかった?」
私がたてがみに手を伸ばすと、彼はくすぐったそうに目を細めた。
「このくらい、どうって事ない。……お前と、この先を共に過ごせるなら」
「あ……」
彼の言葉に思わず戸惑う。
どうしよう。実感が湧かない。
これから、この人と一緒に……。
本当に、一緒に過ごすなんてことができるんだろうか。
急激に襲いくる不安に、目を伏せる。
「本当に……私で…………いいの?」
呟いた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
「はじめから、そう言ってるだろ?」
ヴィルは心外だとばかりに答える。
「お前が弟になるなら悪くない縁談だと思っていたが、お前が妻になるなら、最っ高だ!」
そう言って彼は人懐こく破顔すると、逞しい両腕で私をヒョイと頭上に掲げる。
私は今度こそ、その言葉の意味をわかった上で、笑顔で大きく頷いた。
途端、ぎゅうっと抱き締められて、もふもふの白い胸毛の海に沈む。
水底で、私の鼻先に触れる彼の肌。
それは、あの夏の日のように、熱く熱を持っていた。
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