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それぞれの春祭り(6/7)
カチャ、とノクスが意を決してようやく開けた扉の向こうは、既に照明が落とされていた。
見れば、クレイはベッドで眠っていた。
ピクリ。と片耳が小さく跳ねるのを見て、ノクスが戻った事には気付いたらしいと思うものの、クレイが目を開く様子はなかった。
今更ではあったが、自分の気持ちを自覚してしまったノクスは、何とか部屋の前まで戻ってきたものの、扉の前でそれはもう長い時間、心の整理をしていた。
おそらくクレイはその間に寝てしまったのだろう。
出血もそこそあった、手術の痛みにも耐えていた。
彼が疲れていたのは当然だった。
ノクスは顔を合わせずに済んだことにホッとしながらも、彼にそっと近付く。
布団からはみ出している彼の肩の包帯には、まだ鮮血が滲んでいた。
「包帯を、取り替えますね……」
そっと断りを入れて、ノクスはそれを解いた。
彼の傷口は炎症を起こしているのか、彼の肌は驚くほど熱かった。
手を消毒して傷口に薬を塗ると、痛んだのか、彼が小さく肩を震わせた。
この傷は、本来ならノクスが受けなければならなかった傷だ。
あの時、もし彼が間に入ってくれなければ、あの弾は確実にアリエッタ様の胸を貫いていただろう。
そう思い描くだけで、ノクスの血は凍るようだった。
ノクスはアリエッタがまだアンリと呼ばれていた頃から、側に仕えていた。
あの頃はまだ、こんなことになるなんて思っていなかったし、アンリがアリエッタへとその名を変えた時には、従者もまた手練れの者へと変えられるはずだった。
けれど、ノクスの主人はノクスがいいと言った。
『ノクスが一緒にいてくれるなら、僕も頑張れるから……』と懇願されて、国王らはそれを許した。
まだ未熟だった自分を信頼し、心を寄せてくれる主人。
主人は聡明で優しく、心の強く美しい人だった。
あの方を必ず守ると固く誓っていた。
それなのに、今日私はそれを失うところだった。
……救ってくれたのは、また、この人だった。
あの日と同じ。
もうダメだと思った瞬間に、自分を救ってくれたのは、この人だけだった。
ノクスの視線の先には、美しい獅子が眠っている。
金色にも見える、淡く明るい飴色の毛皮。
兎よりもずっとコシのある毛には、力強さを感じる。
黙ってさえいれば、気品すら感じるその大きくふっくらとした口元。
まつ毛も、彼は意外と長く、多い。
体格差は種族的なものだろうと思ってもらえるなら、確かに、女性だと言われても、容易には見破られないだろうと納得する。
ノクスは包帯を巻き終わる。
彼はまだ、しばらくこの痛みと戦うことになるのだろう。
止めどなく胸に溢れる謝罪と感謝を留めきれず、その肩へそっと口付けた。
「……ありがとう、ございます……」
ぽたりと暖かい雫が手に落ちて、ノクスはそれが自分の涙だと言う事に気付いた。
けれど、それが何の涙なのかが、ノクスには分からない。
アリエッタ様の無事に安心した安堵の涙なのか、それとも、彼への謝罪や感謝なのか、それとも、彼の気持ちにずっと応えることなく過ごしてきた事への懺悔の涙なのか……。
分からないままに肩を震わせるノクスのタイを、不意にクレイが掴んだ。
ぐいと引き寄せられて、ノクスは慌てて怪我のある肩を避ける。
クレイの、怪我のない側の肩へとノクスは倒れた。
「お、起きて……」
慌てて涙を拭おうとするノクスに、クレイは低く唸りながら言った。
「おい、今のは何だ……」
殺気に近い気を向けられて、ノクスが小さく息を呑む。
「な、何……とは……」
震え出しそうな声を堪えて、聞き返す。
「なんで俺の肩にキスをした?」
金の双眸に至近距離で睨まれて、ノクスは目も逸らせないままにそれを自覚する。
「……っ」
耳の内側までが真っ赤になって初めて、クレイは黒兎が赤面しているのだと気付いた。
もしかして、今まで気付かなかっただけで、この黒兎はその黒い毛の下で顔色を変えたりしていたんだろうか? クレイはノクスの黒い毛を、なんて面倒な毛皮だ。と思った。
クレイはノクスの黒いタイをそのまま引き寄せる。
ノクスは驚くほど素直に、クレイの唇を受け入れた。
触れるだけの口付けは、長く続いた。
クレイはノクスに抵抗の意思がないと知ると、そっと唇を離した。
「なあ、俺、ファーストキスなんだけど?」
言われてノクスは耳を疑った。
「………………は?」
唖然としているノクスに、クレイが短く問う。
「お前は?」
「わ、私は……」
考えてみれば、幼いアンリ様から親愛の口付けを頬にいただくことはあったが、こんな……こんな、恋人同士のようなものは、今まで一度も経験がなかったように思う。
「っ……」
俯いてしまった黒兎の、耳の内が赤くなるのを見て、クレイは確認をした。
「初めてだったんだな?」
その言葉に、ノクスが小さく頷いた。
「へぇ〜……?」
クレイが揶揄うように語尾を上げる。
どうしてだ。お前も初めてだと言ったじゃないか。とノクスは納得のいかない思いを抱えつつも、その初めてだという彼の顔を見た。
彼は目を細めて楽しそうにこちらを見ている。
その金色の瞳は、キラキラと、まるで二人で見上げたあの日の夜空のように輝いていた。
「じゃあ次は、どうして俺とキスする気になったのかを、聞かせてもらおうかなぁ〜?」
「っ……」
だから、そんな言い方をするんじゃない。
どうしてもっとこう……。と考えてから、それは彼の彼らしいところなんだから、仕方がないのだと思った。
あの日、彼が真面目なところを私の良いところだと認めてくれたように。
私も、彼のこういうところはもう、彼らしいと思うしかないのだろう。
ふ。とノクスが笑うと、クレイが目を丸くした。
「な、ん……っ、……何で、そこで笑うんだよ……」
クレイの淡い金色に似た毛は、クレイの赤くなる頬を隠してはくれなかった。
その反応に、ノクスは気付いた。
彼はまだ自分を思ってくれているのだと。
それを知った途端、ノクスの心のさざなみは、全てがシンとおさまった。
「私は……どうやら、貴方の事が好きみたいです」
ノクスの口からぽつりと零れたのは、偽らない心だった。
一瞬ポカンと間抜けな顔で呆けた獅子が、泣き笑いのような顔になる。
「…………ったく。気付くのが遅せぇんだよ」
そう言ったクレイの表情が、じわりと苦しげに歪む。
「っ、お前が黙って出てくから、俺はもう、お前に完全に嫌われたのかと思ってだなぁっ!!」
口調とは裏腹の、縋るような瞳で言われて、ノクスは息を呑んだ。
それはまるで、今にも泣き出しそうな顔に見えた。
「……す、すみません……」
素直に謝られて、クレイは苦笑しながら黒兎の肩を片腕で力一杯抱き寄せた。
「……じゃあ、今夜はお前が俺に奉仕するってことでなっ!」
言われて、ノクスが眉を寄せる。
何が『じゃあ』なんだ、何が。
ノクスは冷たく言い放った。
「傷口が塞がるまでは、控えてください」
「何だよ、くそ真面目が」
言葉よりもずっと優しいクレイの声に、ノクスが心を惹き寄せられる。
「真面目な私が、お好きなのでしょう?」
その言葉に、クレイは正直驚愕した。
もう、こいつはそんなこと覚えちゃいないんだと思っていた。
それはクレイの、生まれて初めての告白だった。
「おま……。お、お前、覚えて……」
聞き返す声が、無様に震えている。
しかし、驚きと喜びの後には、激しい怒りが込み上げてきた。
「っ、それで何で今の今まで気付かねぇんだよ!! 鈍感にも程があるだろ!!!」
耳元で叫ばれて、ノクスは両耳を倒した。
キーーンと響く耳鳴りに、思わず目をギュッと閉じる。
クレイはそんなノクスに不意打ちで口付ける。
慌てて目を開いた、その黒くて赤い瞳を覗き込んで、クレイは楽しそうに笑っていった。
「ま、俺とはこれからも毎日一緒の部屋だからな? 毎晩仲良くしてくれよな??」
わざとアリエッタの言葉を借りたクレイに、ノクスは至って真面目に返した。
「はい、これからは二人で力を合わせて、お二人を支えてまいりましょう」
「……真面目が」
クレイはそう言って、けれど幸せそうに笑った。
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