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第460話

「え、と、あの、会長…。翼にココア…」 場の空気に遠慮したか、豊峰が会長室に戻ってきて、オズオスと火宮を窺った。 「あぁ。ほら翼、受け取ってやれ」 「あ、藍くん、ありがとう。えーと、火宮さんとか池田さんの分は…」 真鍋は始めいなかったから仕方がないとして、始めからいた2人の分…。見るからに持っていないけど。 「あ?」 「ククッ、まぁ俺が、『翼に何か温かい飲みもの』と言ったからな」 「はぁっ。そのあたりが器の違いですね」 可笑しそうに目を細めた火宮と、呆れたように溜息をついた真鍋の言葉に、豊峰が困惑したように視線を彷徨わせた。 「豊峰。こういうときはな、状況を見て、まぁ俺はいいにしても、会長には一緒に飲み物の用意をするものだぞ」 すかさず注意を入れた池田に、豊峰が「あ」と口を開けて、バツが悪そうに目を伏せた。 「まったく、未熟だな。せめて翼さんの気遣いの、十分の一でも身につけられないものか、豊峰は」 「っ…」 「クックックッ、鬼の小姑。うちに保護ついでだ。社会のどこに出しても恥ずかしくないように、その辺りもついでに躾けてやれ」 「そうですね。せっかくなので、浜崎辺りを教育係につけますか」 「いいかもな。あいつはあれで、よく気がつく」 ニヤリ、にこり、と、別に責めるようではなく、火宮と真鍋の会話が進む。 「えっ、あっ、お、俺っ、みなさんにもお飲み物を入れてきますっ!」 パッと慌てた豊峰が、急いで踵を返す。 「待て、豊峰。俺も手伝おう」 好みが分からないだろう?と、池田が申し出て、豊峰と共に会長室を出て行った。 「なんか藍くん可哀想…」 「そうか?ふっ、お言葉だがな、社会に出れば、上司や仕事相手に、気を使わなくてはならない場面はいくらでも出てくる。細やかな気遣いができる男は、それだけで得をするし評価も上がる。下手に媚びろとは言わないが、ここで学べることがあるのなら、仕込んでやって悪くない」 「え…?」 「そもそもあいつは、坊ちゃん、坊ちゃんで甘やかされ、大人たちにへつらわれて生活してきただろう」 まぁなにせ、どっかの組の元御曹司サマだもんね。 「だがこれからは、豊峰はその身1つで、己の実力だけで世の中を渡り歩いていかなければならないのだぞ?」 「っ、あ…」 そっか。 そっかぁ。豊峰には、もうその身を無条件に保証してくれる味方も、庇護してくれる親もいない。 たった1人、自分の力で成り上がっていかなきゃならない豊峰には、武器はいくらあっても余ることはない。 あぁ、そっかぁ。もう本当、本当にこの人は…。 「深いなぁ…」 なんでそんな風に、何もかもを見通して振る舞えるんだろう。 一見意地悪にしか見えない行動も、ちゃんと深慮のもとに行われていて。 本当、つくづく惚れ直しちゃう。 「クッ、なんだ。あまりにいい男で、見惚れているのか」 「はぁっ?もう、そうやって自分で言っちゃうところがですねっ…」 確かにうっとりと見直してしまったけれど、すぐそうやって台無しにしてくるんだから。 「はぁっ。またあなた方は…いかなる状況であろうと、イチャイチャなされるのは勝手ですけれどね。今はそれなりの非常事態なのですが」 「あぁ真鍋、いたのか」 気づいていたくせに、そのシラッとした台詞。 「ぷっ…」 「会長!翼さん」 あ、やばい。瞬間冷凍庫…。 ヒュォォッと吹き付ける冷気の、冷たいこと冷たいこと。 思わず身を竦めた俺に、真鍋の呆れたような諦めたような視線がチラリとだけ向いて。 「まったく…。それよりも、会長。翼さんの、明日からの学校ですが」 「えっ?」 「欠席という形を取って、ご自宅からもなるべくお出になられないようにしていただいた方が」 「え…」 そんな。1学期も後少しでもうお終いなのに、行けなくなるの? やだな、と思いながらフラリと火宮を見上げたら、スゥッと細めた目に見返された。 「行きたいのか」 「はい…」 休めば休んだ分だけ勉強遅れるし…。 「ふっ、構わん。登校させろ」 「ですがっ…」 「いいんですか?」 ピリッとした真鍋の声と、俺の言葉が重なった。 「なんのための護衛だ。おまえの自由意志や望みを叶えてやるために、俺が持っている駒だろう?こちらの都合のゴタゴタで、おまえが我慢する必要などない」 「っ、火宮さん、ありがとうございます」 本当、出来た恋人だよね。 「でも寄り道とかは、なるべくしないようにしますね」 俺の我儘を聞いてくれるそんな恋人に、俺も出来る範囲で協力はしよう。 「はぁっ…」 溜息と共に、小さく呟かれた「また厄介な」という迷惑そうな真鍋の言葉を、俺はこの時、何の気なしに耳を素通りさせていた。

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