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第473話

「まったく、突然後ろ向きに、弱気になったと思ったら…。おまえは本当に」 飽きないな、と笑う火宮に、会長室に連れ込まれ、ソファに優しく下ろされた。 「っ、だって俺…」 「まぁ、霧生のような男に、それらしく脅され、あることないこと吹き込まれれば、うっかり揺らぎそうになるのも仕方がないが」 おまえらしくないぞ、と笑う火宮に、ハッと思い出した。 「そうだ、本城のリスト…」 「ククッ、これか?」 ニヤリ、と悪人面で片方の口角だけを上げた火宮が、書類とUSBをチラチラと翳して見せる。 「っ!」 「真鍋に抜かりがあるか」 「それ…」 「霧生が悪巧みに使おうとした全データ。ついでに霧生を追い込むための悪事の揺るぎない証拠類もすべて持ち帰っている」 見縊るな、と笑う火宮は、本当にどこまでも火宮様で。 「っーー、やっぱり、あなたは…」 「ん?」 「っ…そのリストの人たちに、蒼羽会が情報を握っているって流すって…。それが嫌なら…霧生さんのものに、なれ、って言われて…」 きゅっと唇を引き結んで火宮を見上げたら、ふわりと弧を描いた目元が見えた。 「拒んだのか」 だから鞭か、と納得顔をする火宮に頷く。 「痛かっただろう?」 「はい」 「そんな拷問まがいに痛めつけられて、嘘でも、出まかせでも、とりあえず霧生の条件に頷いて、その場を凌ごうとは思わなかったのか」 「っ…」 俺だって、それを考えなかったわけじゃない。 だけどしなかったのは…。 「嘘でも、霧生さんを欺くためでも、言えませんでした…」 火宮を捨てるなんて。 俺にはどうしたって言えなかった。 今でさえ言葉には出来ない。 「クッ、おまえは、まったく」 「それに……いえ」 「ん?なんだ」 言いかけて止めるなと、火宮の目が咎めている。 「翼?」 「っ…そ、の、霧生さんには…。俺の嘘と本気が、多分、簡単に、区別がついたんじゃないかな、って…俺は感じたので」 俺があの時、嘘やその場凌ぎで霧生を誤魔化そうとしなかったのは…。 本気の本音だけで対峙したのは。 あの人の言葉の端々から、どうしても聞き逃しきれずに伝わってきた想いがあったから。 火宮を憎み、恨み、嫉妬に燃えるその中で。 俺を貶し、手酷い言葉をいくつも放ってきたあの人の本心は…。 「好きだったんですよ、火宮さんのこと」 「は…」 「霧生さんは、火宮さんのことを、いつも自分の前にいる、邪魔な、憎い存在だって目の敵にしながらも…。本当はその背中に憧れて惹かれて止まなかった」 「翼?」 何を馬鹿な、と眉をひそめる火宮に、俺は小さな笑みを浮かべて首を振った。 「愛憎表裏一体。あの人は、本当は火宮さんのことが好きで好きで、どうしようもなかった。だってあの人は…」 『勝てない』と、確かにそう呟いた。 あれは、常に自分の前にいる火宮に、ではなく…。 「俺に向いていた。あの人が俺に向けたのは、火宮さんから大事なものを奪って一矢報いたいなんていう思惑なんかじゃなく、嫉妬と羨望、そして憎しみ」 「翼…」 「あの人は、本当は大好きな火宮さんの、本当は自分が立ちたいその場所に、俺っていう堅気の子供が…うんん、例え誰であっても、自分以外の誰かが並んで立っているのが、ただ許せなかったんです」 なんでおまえなんだ。なんでおれじゃない。 霧生の鞭の1打1打に、悔しさと嫉妬、憎しみと羨望がごちゃ混ぜになって表れていた。 「憎んでいるのも本当。だけど、どうやったって敵わないあなたの才能に、どうしようもなく惚れ切っていたのもまた、あの人の真実なんですよ…」 不器用な人、と苦笑いが浮かんでしまった俺を、火宮がジッと見つめてきた。 「理解が、出来るのか?」 「え?」 「だから、許すのか」 「っ…」 「可愛さ余って憎さ百倍の行動だから、許してやれということか?」 ハッ、と呆れた吐息を吐き捨てる火宮に、俺はきゅっと唇を引き結んで、はっきりと首を振った。 左右に。 「許しませんよ」 「………」 「それでも、許せません。霧生さんは、池田さんたちの身を傷つけ、火宮さんの心を、傷めた」 理由は分かっても、その身勝手な理由は、なんの免罪符にもならない。 「そうか」 「はい。っ、あ、の…その、池田さんと及川さんは…」 俺が最後に見た、血だらけの池田と、グッタリと血の気がなかった及川を思い出す。 無事、ですよね…? 希望的観測を込めて火宮を見上げた俺の目の先で、火宮の唇がゆっくりと言葉を形にしていくのが見えた。

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