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第1話
やばい。怖い…。
びゅうびゅうと風が吹くビルの屋上。
足元に見えるのは、遠いアスファルトの地面。
今更びびんな、俺。
ぐっと握り締めた拳の震えには、敢えて気付かない振りを通す。
遺書、よーし。
靴、よーし。
高さ、多分よーし。
少なくとも、学校の屋上よりは高い。
きっと、確実に死ねる。
じり、と進めた足が、屋上の端の曲がり角を捉えた。
きゅうんと切なく縮こまった心臓と、ぐっと丸まった靴下の中の指先。
あぁぁぁ、やっぱり怖い。
首吊りにすればよかったかな。
薬物の過剰摂取の方がよかった?
電車…は、すごく迷惑がかかるから、駄目。
「通行人の姿、なーし」
最期は誰にも迷惑をかけずに。
そしてできることなら、苦痛が少なく少しでも楽に逝ければいい。
「よし」
ぎゅっとつぶった目の裏には、噂に聞く走馬灯とやらは映らなかった。
寒さのせいではなく震える全身の理由なんて分かりきっている。
けれどそれに気づいてはいけない。
もう、決めたことだ。
「ッ…」
じり、とスライドさせた足が、屋上の角を通過した。
落、ちる…。
ぐらりと傾いた身体に、もう後に引けないことを覚悟する。
大丈夫、大丈夫だ。
痛いのはきっと一瞬。
すぐに何もわからなくなる。
わからなく…
「え?」
どさっと身体に感じたのは、想像よりもずっと軽い衝撃だった。
え?こんなもん?
痛いとすら感じない状況に、思わず笑いが込み上げる。
8階だぞ?20メートルはあったよな?
死が、こんなにあっさりしているなんて知らなかった。
散々びびって馬鹿みたいだ。
へぇ。死んでも意識って、こんなにはっきりしてるもんなんだな。
感慨深く死というものを受け止めていた俺は、目まで自分の意志で開ける状況に感心した。
と、同時に。
「え?」
ぽかんと開いてしまった口から、とっても間抜けな音が漏れた。
そう、それは確かに空気を震わせる、俺の生声。
「は?え?ちょっと待って」
わけが、わからない。
俺は、8階建てのビルの屋上から、ついさっきまさに飛び降りたはずだ。
はるか地上のアスファルトに叩きつけられた身体は、血だらけドロドロのグチャグチャで、見るも耐えない状態のはず。
だから、視力が残っているってのがとても不可解で。
「あぁそっかぁ。ゆーれいってやつか」
ぽん、と手を打って納得の答えを呟いた瞬間、それはそれは冷たい声が降り注いだ。
「馬鹿か?」
えーと、これは一体どういう状況でしょう?
慌てて身体中を探った手は、血の一滴どころか、傷1つ見つけられなかった。
「何で?」
地上8階から落ちて無傷な人間っていうのは、普通に考えてありえない。
よっぽどな奇跡か幸運が舞い降りでもしない限り。
いやでも今俺は死にたかったんだから、幸運ではないけれど。
「いつまで呆けているつもりだ?」
カツンと響いた革靴の音が、やけに大きく耳に届いた。
「あ、え?」
ゆっくりと、長く綺麗な指先が、『遺書』と表書きされた封筒を拾い上げた。
「ふぅん」
スッと封筒から出された紙が、ヒラヒラと目の前で風に揺れている。
「寄越せよ」
「え…?」
一瞬、何を言われたのか、全くわからなかった。
「おまえの命、身体、人生。俺に、寄越せ」
「は?」
一体何を言ってるんだ、この男は。
「捨てるつもりだったんだろう?それなら俺が拾ったって、何の問題もないはずだ」
いやいやいや、何の問題もって…。
よくよく見回したここは、どうやら飛び降りる前にいたビルの屋上で、俺はどうやらこの目の前の男に引き戻されて尻餅ついてコケただけのようで。
「何でかなぁ…」
見ず知らずの他人の自殺を阻止してくれちゃって。ただの気まぐれで助けちゃうとか、本当、余計なお世話。
「両親は借金を苦に自殺。背負わされた多額の借金を苦に、おまえも自殺?大方、借金取りに身体でも売られそうになったか」
遺書を読み上げながら、ククッと笑い声を立てる男は、何がそんなに可笑しいのか。
「あぁ、そっか。よくよく見たら、ダークスーツって」
闇色の衣服に、闇を纏いつかせた雰囲気の男は、恐ろしく整った顔立ちをしていた。
闇色と同じ漆黒の瞳に、モデルばりのスタイル。芸能人かとも見えるけれど、昼間の明るさよりも夜の闇が似合うこういった種類の人間は、総じて1つの職業で呼ばれる。
「自殺を止めて助けてくれたんじゃなくて、返済請求に来たわけね…」
死なれてしまったら、貸した金が回収できない。
だから自殺を阻止したわけか。
「いくらだ?」
鮮やかに美貌が微笑みを浮かべ、地べたに尻をついたままの俺を真っ向から見下ろした。
「え?」
「おまえの借金だ。全額返してやる」
「は?え?いやいやいや」
だから、何を言ってるんだ、この男は。
「捨てるつもりだったこの命の値段はいくらだ?」
「えーと?」
やばい。聞こえているのは確かに日本語だと思うんだけど、意味が全くわからない。
「言い値で買ってやる。この先のおまえの人生、買い占めだ」
「えーと、えーと…きゃ、キャンユースピーク、ジャパニーズ?」
自慢じゃないが、超絶苦手な英会話よ、どうか通じてくれ。
テンパりながらも必死で紡ぎ出した数少ない英文は、絶対零度の冷めきった視線と、これでもかというほど冷たいため息に晒された。
「阿呆なのか?」
「う…」
「俺が話しているのは日本語で、おまえの借金を返済し、おまえのこれからの生活の面倒を見ると言っている。Do you understand?」
それはそれは嫌味なほどの流暢な英語だった。
意味は、わかる。だけどやっぱり理解ができない。
「あの…」
「ふん、おまえに選択肢があると思うのか?」
「え?」
「もう1度、飛べるのかと聞いている」
ちらりと向けられた視線を追って、見てしまったのは屋上の端から広がる夜闇。
うっかり取り留めてしまったせいで、どうしたって惜しくなる命を、もう1度捨てるにはどれだけの覚悟が必要か。
「ッ…」
ましてや目の前にぶら下げられているのが、借金チャラと今後の生活の保障という、美味しすぎる人参。
「選ぶまでもないだろう?俺に全てを寄越せよ」
甘く魅惑的な囁きが、全神経を誘惑する。
艶やかな微笑と、薄く細められた瞳に宿る妖しい光が、全霊で肯定を求めてくる。
「っ、ん…」
引っ張られるように、操られたように、頭が自然と上下した。
「言葉に出せ」
「ッ、は、い。渡し、ます。俺の、命、身体、人生全て、あなたに」
あぁ、この選択は何を意味するんだろう。
それでも俺には、もう他に選べる道はない。
まぁいいさ、どうせ捨てるつもりだった命なんだ。くれてやる。この気まぐれで妖しい男が、欲しいと言うならば。
「ふっ、契約成立だな」
ビリビリと、遺書と書かれた紙切れが、音を立てて裂かれていく。
「名は?」
紙吹雪が、夜の風に流されて、視界を横切り舞い踊る。
「伏野、翼 」
「飛べない翼か。お似合いだ」
「ッ…」
「俺は火宮。火宮刃 」
差し出されたこの手を、取れって?
握手かと思った手は、取った瞬間にぐいと引かれ、強引に立ち上がらされて違うと気づいた。
「んっ、ん〜っ!」
気づいたときには何故か、窒息の危機に陥っていた。
え?いや?こ、これって、キスぅ〜?!
まん丸に見開いてしまった目を自覚した。
間近にある美貌が、とても楽しげに意地悪く揺れたのがわかる。
「ガキ。目くらい閉じろ」
クックと喉の奥を鳴らされて、頬に熱が集まる。
「ッ!」
「まぁいい。ゆっくり躾けていってやる」
愉悦に揺れた火宮の瞳に、俺は不意に1つの事実に思い至る。
「全てって…」
あぁ、そうか。その中に、『身体』っていうのも入っていたな。
俺、ヤられんのか…。
「行くぞ。靴を履け」
くいっと顎をしゃくられて、俺はぼんやりと、揃えて置かれていた靴に足を突っ込んだ。
まぁ、そうだよな。
俺、馬鹿みたいな金額で買われたわけだし。
何の見返りもなくそんな大金はたくやつなんているわけないし。
「まぁいいか」
なんかこの人、半端ないイケメンだし。
借金のために、無理やり売りさせられて、不特定多数に犯されるよりはずっとマシか。
「おい、翼。ぼさっとするなよ」
「え、あ、はい」
後をついて来ることを疑わない、自信に満ちた背中までイケメンだ。
「あーあ」
つい数分前までは、死のうとしていたのに。
生きてる…。
頬を伝った温かい滴に、胸が苦しいほど震えていた。
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