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第2話

死を覚悟して上ったビルから、生きて地上に足を踏み出した俺は、目の前にあるいかにもな黒塗り高級車に、1人勝手に納得していた。 「乗れ」 「はい…」 後部座席、運転席の後ろは、本来火宮の場所ではないのだろうか。 先に俺を車内に押し込み、後から助手席の後ろになる位置に、スマートに滑り込んでくる火宮は、やっぱり格好いい。 「出せ」 運転席には運転手。 助手席には、これまたやけに顔の整った黒いスーツの男が乗っていた。 「ご自宅でよろしいのでしょうか?」 運転手の男が、窺うようにバックミラーを見ていた。 「あぁ」 「あの、そちらは?」 今度は助手席の男が、チラリと後ろを振り返る。 あー、俺?そりゃ、不審者ですよねー。 「拾った」 「拾った、のですか…」 「あぁ。捨てるようだったから、拾った。今日からうちで飼う」 俺は捨て犬ですか。 あまりの火宮の発言に、途方にくれたのは俺だけではなかったらしく。 「人間、ですよね?」 「これが犬や猫に見えるのなら、眼科か精神科に行った方がいいぞ」 「いえ…」 悪いのは、助手席の人の目や頭じゃなくて、火宮の発言だろう。 「とにかく、今日からマンションに一緒に住まわせることにしたから。伏野翼だ。覚えておけ」 異論は認めないという、きっぱりとした宣言だった。 「わかりました」 「えっ?わかっちゃうの、そこ」 俺、人間だよ?普通、人間をひょっこり拾って、飼うとかありえないと思うんだけど。 「社長がお決めになられたことですから」 何が不思議か?と言わんばかりの助手席の男に、俺は何もかもが疑問だった。 その中でも1番は。 「社長?」 「あぁ。会社の経営者と言うならそうだろう」 「えっ!」 マジマジと隣を見た俺は、綺麗な美貌が皮肉げな笑みを浮かべていることに気がついた。 「何だ。何か言いたそうだな」 ククッと喉の奥を鳴らして笑うのは火宮の癖なのか。 愉悦に揺れる顔まで綺麗で目眩がしてくる。 「てっきりやのつく自由業の方かと…」 「やのつくねぇ」 「あっ、その、暴れるサークルっていうか」 「マル暴、って?おまえはサツか」 ははっと声を立てた火宮とは対照的に、車内の空気がピシッと凍った。 「社長、その子供…」 「そう殺気立つな。こいつに怖いもんなんて、そうないよ」 まぁ、何せ死のうとしていたくらいだしねー。でもね…。 「怖いですよ。死ぬの、死ぬほど怖かったです」 むっと告げた反論は、火宮の笑い声に掻き消された。 「ふ、ははっ。そうか」 「はい。でも、あの、あのですよ?もし、俺のこと、飽きたり、いらなくなったりしたときには、ちゃんと殺して下さい」 「死ぬのは怖いんだろう?」 「はい、だから、怖くなく、できれば痛くも苦しくもなく死なせてくれるといいんですけど」 うん、それがいい。 隣に笑顔を向けた俺は、火宮の目が一瞬見開かれ、その後弾かれたような華やかな笑みに彩られた美貌を見た。 「この俺に、笑顔で、優しく殺せと面と向かって言うやつに、俺が飽きるわけがないな」 「え?」 「俺にもう殺してくれと言うやつは、それはもう悲愴な様がたっぷりで、縋るように願ってくるのが常だ」 あぁぁぁ、やっぱりこの人って…。 「会長!」 「くくっ」 「会長?組長じゃないんだ」 まぁ、きっと意味は似たようなもんなんだろうけど。 「本当、おまえは、物怖じしないやつだな」 「え?」 「だから面白い。確かに、おまえのご指摘通り、暴れるサークルさ」 非常に楽しげに揺れる火宮の顔は、やっぱり馬鹿みたいに綺麗だと思った。 「蒼羽会を束ねている。だから会長。ご察し通りの、暴力団の頭だ」 「ソウワカイ…。じゃぁ社長っていうのは?」 「極道だっていまどきは、正規の会社も経営しているのさ」 「ふぅん」 よく聞く、フロント企業ってやつの社長をしてるってことかな。ま、どーでもいいけど。 「助手席の男が、うちのナンバー2。俺の片腕で幹部の真鍋(まなべ)だ。見知っておけ」 軽く会釈だけしてくる、真鍋と言われた男からは、何の感情も窺えなかった。 「どうも、よろしくお願いします」 「そっちは運転手兼護衛の堀之内(ほりのうち)。顔を合わせることもあるだろう」 「はぁ、どうも…」 ヤクザっていう割に、この人たち、俳優かモデルかってくらい、いい顔してるんだけど。 「翼」 「はい?」 「怖くないのか。嫌悪は…してないみたいだな」 窺うように覗かれた顔が、近い、近い。 「うぁ、えーと?まぁ、もっとガラもタチも悪いご同業者さんに、散々追われていたもんで」 あの怖ーいお兄さんたちに比べたら、あんたたちはかなりマシ。 「なるほどね。耐性があるわけか」 「っていうか、あなたイケメンだし、怖くはないかも」 「ふっ、はははは!イケメンか。面と向かってそんなことを言うのも、おまえくらいだ」 またも響く笑い声に、火宮は笑い上戸なのかと認識する。 「え?言われません?」 俺、審美眼は確かな方だと思うけど。 「おまえは楽天家だと言われるだろう?」 「うーん、あなただけですね」 初めての評価だ、と笑えば、火宮の目が薄く細められた。 「あなたというのはやめろ。名乗っただろう?」 「えーとそれじゃぁ、火宮…」 うっかり呼び捨てにしかけたら、車内の空気が殺気立った。 「さん?」 「まぁ、いいだろう。おいおまえら、こいつは、俺のもの、だ」 うわ、痛そー。 がんっと助手席の背もたれを蹴りつけるとか、さすがは暴れるサークルか。 結構な仕打ちを受けたにもかかわらず、クールな表情をわずかも崩さない真鍋には驚きだけど。 「ったく、おまえもあんまり、こいつらの神経逆撫でするなよ?」 「はぁ」 「まぁ俺が許しているものを、こいつらがどうこうすることはできないけどな」 あぁ、あれか。火宮さんがカラスは白いといえば、白くなっちゃう感じか。 「カラスは黒いだろう?」 阿呆か、と冷たい目を向けられて、俺はハッと口を押さえた。 「声に出てました?」 「思い切りな」 ククッと鳴らされる喉の音に、だんだん慣れてきた自分が嫌だな。 だけど火宮さんは間違ったことを言わない。 そのことが、カラスは黒いと当たり前のように言ったたった一言と、前に座る2人の空気から察せられた。 「社長、到着しました」 「ご苦労」 わぁ。随分立派なマンションだー。 車外に出て見上げた建物は、首が仰け反る高さだ。 「翼、腹は?」 「え?」 「夕食、どうせ食べていないだろう?」 「あー、はい」 まぁ、死ぬつもりだったし。 「アレルギーと好き嫌いは」 「え?アレルギーは特にないです。好き嫌いは…にんじんときゅうりとブロッコリーとアスパラとワサビと…」 片手では足りなくなって、もう片方の手を上げた俺に、ツンドラ並みの冷え冷えした視線が向いた。 「あ、すみません。食べ物ならなんでもいい…」 「遠慮はするな。だけど、酷い偏食のようだな。その辺りも躾けていくか」 「あは」 「だ、そうだ。真鍋」 「かしこまりました」 何を畏まっちゃっているのか知らないけど、すごく絵になるお辞儀だな。 執事っていたらこんな感じかも。 「行くぞ、翼」 「あ、はい」 「お疲れ様です」 うわー、指紋認証とか、初めて本物見る。 しかも直通エレベーターに乗せられて辿り着いたのは最上階だし。 ドアが1つしかないってことは、ワンフロア全部、火宮の部屋か。 「うわー、何それ。今度は静脈認証?すごい」 テレビでしか見たことがないハイテク装置がドアの横にあった。 「よくご存知で」 「まぁ。でもこんなセキュリティが必要な住居とか…大変ですね」 「ふっ、ただの用心だ。蒼羽会会長の自宅を襲撃しようなんてやつがいたら、計画した時点で息してないな」 「ふぅん」 やっぱりこの人ヤクザなんだなーと思う反面、そこまでの怖さを感じない。 「ほら、入れ。これからここが、おまえの家でもある」 「あ、えーと、お邪魔します?」 ペコリと頭を下げながらくぐった玄関の向こうは、目を瞠るほどセレブな室内が広がっていた。

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