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第12話

「つ、疲れた…」 たかが食事。されど、次々と見慣れない料理が運ばれくるフルコースは、俺を消耗させるには十分だった。 「ククッ、美味かったか?」 「あー、えーと?」 正直、ナイフとフォークで格闘しながらの料理の味は、いまいちよくわからなかった。 「それどころじゃなかったようだな」 「あー、いえ。まぁなんか、初めての味がたくさんありました」 「そうか」 不快そうでは、ないな。 せっかく連れてきてやったのに、と怒られても仕方ない反応をしてしまっている自覚はある。 けれど火宮は、穏やかに目を緩ませていた。 「では行くか」 「あ、はい」 火宮の手が、さりげなく腰を抱いてきた。 本当、手慣れているなぁと思う。 洗練されたスマートなエスコートに、ついうっかり身を委ねてしまう。 「ん?上?」 ここはホテルのレストラン。 乗り込んだエレベーターが向かう上階は、客室しかないはずだ。 まさかの火宮のミス?と思って見上げた美貌は、確信的に微笑んでいた。 泊まりってこと? 黙って隣に佇んでいる火宮は、何も説明するつもりはないらしい。 俺が1人疑問に首を傾げているうちに、エレベーターは目的の階についてしまったらしかった。 「え?」 下り立った階の空気が違うことに、瞬時に気がついた。 「どうした?向こうだ」 カードキーを片手に、さっと右奥に見えたドアに火宮が歩いて行く。 踏み出した足が、フカフカの絨毯に沈む。 ひぇ。高そうな花瓶…。 見れば、この階の内装も、調度品も、全てが他とは違う。 違う、というか、明らかに高級感を漂わせている。 「まさか」 予感が、ゆっくりと確信に変わっていく。 火宮がかざしたカードキーに、ピーッと音を立てて開いた客室のドア。 庶民な俺のイメージでは、ホテルの部屋というのは、入ってすぐにベッドと鏡台とテレビなんかが見えるワンルームのはずなのだが。 火宮に続いて入ったここは、俺が知るそのホテルの部屋とは全く違っていた。 「すっ…」 「す?」 「すっげぇぇーっ!」 高級そうなソファセットがあることよりも、いきなりリビング仕様の部屋が現れたということが、スイートルームだと確信させたことよりも、俺の目に真っ先に飛び込んできて、俺を驚かせたのは。 「綺麗…」 正面と、角を挟んでその隣。 2面がガラス張りになった壁の、その向こうに広がる夜景だった。 「やばい、火宮さん…」 身体中が、感動で震える。 視界いっぱいを満たすのは、煌めく地上の星たち。ビルやネオン、街や車の明かりが、輝く星となって眼下に広がっている。 「気に入ったようでなにより」 悠然と隣に並んできた火宮の顔が、ぼんやりと窓ガラスに映った。 「火宮さん?」 「気が済んだらこっちへ来い」 ふっと目元を緩ませて、踵を返した火宮の姿が目に映る。 なんで、こんな美しい景色を? 感動できる自分に、生きていることを痛いほど実感させられてしまう。 あの時、死んでいたら見られなかった光景。 窓にペタリとついた手のひらに、冷たいガラスの感触が伝わる。 ずっと見ていられる。 だけど。 「はい」 もったいないけど。まだまだこの景色を眺めていたいけど、いつまでもそう思っていたらきりがない。 「なんだ、もういいのか?」 後ろ髪を引かれつつも、呼ばれた火宮の方に向かった俺は、ふと、火宮が立っているソファの前のテーブルに、1通の封筒が置かれているのに目がいった。 「え?」 「開けてみろ」 「はぁ」 くいっと顎をしゃくられ、おずおずと封筒に手を伸ばした。 封などしていないそれの中から、1枚の書類が出てくる。 「え…?」 か、んさい、しょうめいしょ…? 書類上部に書かれた文字を目で追った俺は、何度もその言葉の意味を脳内で反芻した。 「おい、翼?」 金額とか日付けとか、署名とか捺印だとかがあれこれ書かれている書類だけれど、俺の目を釘付けているのは、『完済』のひと文字。 契約終了、と確かに書かれている書類を持った手が、ブルブルと小刻みに震えてきた。 「完済証明書…本当に?」 だって、何千万だと思ってるの? この途方もない桁数と数字が、俺たちをどれだけ苦しめてきたか。 父の命を奪い、母の命を奪い、俺から平凡で平和な生活を奪い、人生を奪い、死さえも覚悟させた全ての元凶。 「本当に?」 紡ぎ出した声は、情けなく震えた。 「ッ…」 やばい、泣く、と思った。 じわりと滲んだ視界が、書類の文字を見えづらくさせる。 「翼」 っー!それ、反則。 なんて優しい声を出すんだろう。 堕ちる寸前で、何もかもを包み込むような柔らかい声は、もう涙を絞る凶器でしかない。 「っ、ふっ…ぇっ…」 悔しいとか、嬉しいとか、ほっとしたとか、苦しいとか。 ごちゃ混ぜになった感情が、俺の目から雫を溢れさせ、ポロポロと頬を濡らしていった。 「火宮さんっ…」 がくっと折れた膝が、柔らかい絨毯の上に落ちる。 「なんだ」 え? ありがとう、と感謝の言葉を口にしかけた俺は、先ほどの柔らかな声とは打って変わった冷ややかな火宮の声に、ぎくりと動きを止めた。 「っ!」 そっと見上げた火宮の顔は、笑みを浮かべている。 けれどその目は、俺を試すように見据えていた。 あぁそうか。 とんだ思い違いをするところだった。 火宮はなにも、ただの善意でこんな多額の借金を肩代わりしてくれたわけではなかった。 あぁ、そうか。 思えば、分不相応と思われる豪華なディナーも、一泊何十万かと思えるようなこの豪華なスイートも。 独り占めの美しい夜景も。 「初めてって言ったから?」 「ふっ。嬉しいか?少しでもいい記念にしたいだろう?」 「お気遣い、ありがとうございます」 思ったよりも平然と、笑顔になれた。 膝をついてしまっているから、土下座のように見えなくもないだろう。 下げた頭の上に、俺を見下ろす火宮の視線を感じる。 「立て」 ドクンッ、と、煩いほどに心臓が音を立てた。 「はい」 震える足を叱咤して、火宮の命令に大人しく従う。 感謝はしない。 火宮は、大金をはたく代わりに、俺を買い占め、我が物にしただけに過ぎない。 謝意などはもたない。 俺は、借金返済の約束の代わりに、全てを火宮に売り渡した身だ。 「こっちだ」 その扉は、きっと寝室へ続く道。 震える足が、1歩1歩と確実にそちらへ向かう。 「俺の値段か…」 手の中の紙が、カサリと音を立てた。 知らずに溢れた笑みの意味は、自分でもわからない。 火宮にかかれば、こんなに簡単に払ってしまえる金額。そのために俺の両親は死ななければならなかった。 「どうした?怖気付いたか?」 「いえ」 火宮にとっては、ほんの端金らしい金額で、俺は全てを火宮に明け渡す。 ここにあるのは、火宮が俺を我が物にした証。 「っ…」 開いた扉の向こうには、広く寝心地のよさそうな、豪華なベッドが見えていた。

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