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第68話

そ、っか。女物の香水…。 ゆっくりと深呼吸をして、ゆっくりと状況を把握する。 息苦しさと胸の痛みはすぐに和らぎ、落ち着いた呼吸が戻ってくる。 1度深く瞬きをしたら、揺らいだ気持ちは安定した。 「そりゃ、そうだ」 あれだけの容姿、あれだけの経済力。 魅力たっぷりの大人な火宮に、女がいないわけがない。 「嘘つけ…」 何が仕事だ。何が外せない急用だ。 単に女に呼ばれてホイホイそっちを優先しただけじゃないか。 そういえば真鍋が、仕事かと尋ねたときに微妙に言い淀んでいたのを思い出す。 「ははっ。別に、べぇっつに…」 俺はただの火宮の所有物だし、夕飯だって自分の作るついでだし、火宮が外で何してこようが、たとえ女を抱いてこようが、俺には何を言う権利も、ましてや文句を言う立場もないわけで。 「っ、く…ひっく…」 気づくな、俺。 この感情の意味に気づいてはいけない。 「っ…ふっ、ぅえっ…」 違う、違う、違う! 火宮の最優先じゃないことなんてどうってことない。 だって俺はただのモノ。 こんな感情があるわけない。 「っ…ふ」 悲しくなんか。痛くなんか。 悔しくなんか。 「んぐ…ぅー」 枕を抱き寄せ、顔を強く押し付ける。 鼻に残る匂いを搔き消すように、浮かんだ胸の痛みを振り払うように、固く固く目を瞑る。 知らない。 溢れる涙のわけなんか。 考えるな、俺。 ヒクッとしゃくりあげた嗚咽が喉に絡まり、微かな痛みを残していった。

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