69 / 719

第69話

「うはぁ、腫れたなー」 翌朝の目覚めは最悪だった。 パリパリと引き攣れる瞼と、ずっしりと重たい目。 まぁ泣いて眠れば当たり前の結果か。 「はぁっ…」 それに加えて、今日は身体じゃなく、心が重い。 「んーっ。起きるか」 いつまでもベッドでグズグズしていたら、余計に気分が沈む。 俺は大きく伸びを1つして、スルリとベッドを抜け出した。 「ん?翼?」 「え?っ、火宮さん…」 「あぁ。今日は早いな。いや、俺が遅いのか」 クックと笑う火宮がリビングにいた。 「お、はよう、ございます…」 「あぁ。…どうした?」 ゆったりと近づいてきた火宮の手が、俺の顔に伸びた。 「涙の跡。怖い夢でも見たのか?」 くくっと揶揄うように笑っている火宮の指が、俺の頬をツゥーッと撫でた。 「ッ!怖い、夢って…俺はそんな子供じゃありません」 いくらなんでも、悪夢くらいで泣く年じゃない。 「ククッ、そうだな。おまえはこどもじゃなかったな」 ニヤリ、と意地の悪い笑みを浮かべた火宮の言いたいことが、手に取るように分かってしまう自分が悲しい。 「っ、朝っぱらからっ!何を言い出すんですかっ」 「ククッ、何って、ナニをしてる関係だよな?オトナのな」 スゥーッと頬から胸へ、胸から脇腹へ、そしてスルリと後ろに滑って行った火宮の指先が、お尻の上でピタリと止まる。 そこに留まった手が、尻たぶをいやらしく揉んできた。 「ッ…」 「フッ、今日はぶたせるなよ?」 「え…?」 「真鍋が、多分夕方前には来られるだろう」 「あ、そうなんだ…」 家庭教師、今日はあるのか。 「課題は?」 「終わってますよ」 バッチリ、と自信たっぷりに火宮を見上げる間も、尻を揉んでくる手は止まらない。 「ふぅん」 「あの…」 「なんだ」 「や、その、手…」 痛くも不快でもないんだけど。 いや、逆に微妙に気持ちいいからヤバい。 「手?ククッ…」 っ!むしろ足! わざとお尻を揉んでいる方ではない左手を持ち上げて見せて。 それと同時に膝を軽く曲げて突き出し、俺の足の間にグリグリ押し付けてくるとか。 本当、性悪。 「やめっ…んっ、ふっ…ぁ」 「ククッ、どうした?何か当たるぞ」 だから、当たるんじゃなく、当ててるんでしょうが! 膝に、人の性器を! 「意地悪っ…やめっ、いや…」 「フッ、嫌と言う割に、ここは」 「っ、朝、だから…」 そう。健康な16歳男子。 それは朝の生理現象だ。そうだ。 決して火宮の手と足に感じているわけではない。 「ククッ、まぁいい。そろそろ出る時間だ」 「ふぁっ…?」 突然あまりにあっけなく、スッと引かれてしまう足と、離れていく右手。 「約束、覚えているな?」 「約束…?ッ!な…、う、はい」 自分で触れるの禁止。 こんのどSッ! 全力で睨みを利かせてやるものの、涼しい顔の火宮はどこ吹く風だ。 「クックックッ。いい子にしてろよ」 「っーー!」 ポンと頭に乗った手に、殺意すら覚える。 「行ってくる」 「っ…行ってらっしゃい!」 いーっ、と剥き出した歯を思い切り火宮に向けてやる。 ヒラリと身を翻した火宮は、やっぱりそんなものに堪えた様子はない。 後ろ姿までイケメンな、ダークスーツの背中を腹立たしさと共に見送る。 「あぁそうだ」 リビングの出口で、不意に振り返った火宮が笑う。 綺麗に整った美貌を、鮮やかに企み顔に歪ませて。 「美味かったぞ」 え? ポカンと固まった俺を嘲笑うかのように笑みを深めて、火宮はそのままスルリとリビングから消えて行った。 「え?え?美味かったって、まさか」 バタバタとキッチンに走った俺は、コンロに置いてあったロールキャベツの残りの鍋と、温め直して今朝食べようと、ラップをかけて置いておいたグラタン皿が、綺麗さっぱり空になっているのを見つけた。 「ッ…ずるいから。反則だから…」 こんなの…。こんなのっ…。 「っ、く…ひっ、く…」 なんで。昨日は帰って来なかったくせに。 女のところに行ったくせに。 「俺の、分なのに…。俺の朝ご飯なのに」 火宮のために残しておいたわけじゃない。 火宮の口には入らないものだと、昨日諦めたのに。 「食べてくれたっ…。美味しいって…」 ズルすぎる。悔しい。 本命、いるんだろ。 ちゃんと女がいて、俺なんかただの玩具で。 「っく…ひっく…」 なのに嬉しい。 料理、食べてくれた。 ただそれだけのことが、苦しいほど。 あぁ駄目だ、もう誤魔化せない。 頬を伝う水滴の意味が、痛みと共に胸を刺す。 「ふぇっ…ひ、っく…なんで」 ガクッと挫けた膝が、ヘナヘナと床に落ちた。 「っ…気づきたくなかった。知りたくなかった…」 両目を覆うように顔に当てた右手の平が、目から溢れる水滴で濡れる。 「報われないんだ。分かっているのに」 駄目だ、駄目だと思う頭と対照的に、心は1つの答えに向かう。 何で気づかせた。 火宮のたった一言で、こんなにも舞い上がる俺のこと。 火宮の1つ1つの行動に、一喜一憂する俺のこと。 「俺は…」 ただのモノで、感情なんかあるわけなくて、 心なんか持ったって仕方ない。 この気持ちの行き場なんてどこにもないのに。 なのに。 好き。 火宮が好き。 ついに認めてしまった想いに、涙が後から後から溢れて止まらなかった。

ともだちにシェアしよう!