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第70話
そうして、どれくらい泣いていたんだろう。
不意に、リビングの扉が開く音が聞こえて、俺は顔を上げた。
「失礼しますー。伏野さん…?は、まだお休み中っすかね…え?」
っ!浜崎さんだ。
やばい、泣き顔、と思ったときにはもう、キッチンに回り込んできた浜崎に発見されてしまっていた。
「伏野さんっ?!どうしたっすか?どこか痛いんすか?腹っすか?頭っすか?!」
うわーっ、と慌てて俺の側にしゃがみ込んだ浜崎が、ワタワタと全身を眺め回してくる。
出しては引っ込め、また出しては引っ込めているその手は何なのか。
「ど、ど、ど、どうしようっ。ちょっと触っ…でも会長が…でもちょっと触っ…いや、まずいかこれ。あの、伏野さぁん…」
ヘニャリと下がった眉が、情けないのなんのって。
思わず頬も緩む。
「ぷっ、あははは。あの、浜崎さん、ちょっと落ち着いて下さい」
笑えた。
とても自然に。
「ふ、伏野さん?」
おかげで涙も引っ込んだ。
大丈夫だ。俺は大丈夫。
「あはっ、はは。ごめんなさい。何でもないんです、本当。どこも大丈夫なので」
「で、でも…」
「本当に、大丈夫です。どこも、何とも」
そう、大丈夫。
ちゃんと立場は分かってる。
俺は火宮の所有物で、火宮に生かされているただのモノ。
そうだ、何も関係ない。
俺の気持ちがどこに向かっていようとも、俺はただ、火宮の望むまま身体をひらき、火宮が求めるままこうして側で過ごすだけ。
「大丈夫」
俺のすべては火宮のもので、俺はこうして側にいられる。
それだけでいい。
なにせ1度は捨てた命。
本来持つことすら出来なかった感情だ。
だから望まない。何も。
望む権利がないことくらい分かってる。
「あの、伏野さん?」
「あ、ごめんなさい、浜崎さん。えっと、何か用事ですか?」
にこりと、綺麗に笑えた自信があった。
「っ!あ、や、あの、今日はハウスキーパーが掃除に入る日で…」
わたわたと慌てた浜崎が、ハッと後ろを振り返った。
「玄関に待たせてあるんす。伏野さんの様子を窺ってからと思ったものですから」
「あ、そうなんですね」
「お掃除入ってもいいっすか?朝食とかまだなら、待たせますけど」
うん。なんか食欲ないからいいや。
「構わないですよ」
「そうっすか?少しバタバタしますけど、伏野さんは好きにしていてくれていいので」
「はーい。邪魔にならないようにしてますね」
「いやいや、それは向こうが気を使うことで、伏野さんは自由にしてて下さい。じゃぁ入れますね」
にっと笑って玄関に向かってしまった浜崎を見送り、俺はとりあえず顔を洗おうと洗面所に足を向けた。
洗面所の鏡に映った俺は、自分でも引くくらい目が真っ赤に腫れ上がっていた。
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