70 / 719

第70話

そうして、どれくらい泣いていたんだろう。 不意に、リビングの扉が開く音が聞こえて、俺は顔を上げた。 「失礼しますー。伏野さん…?は、まだお休み中っすかね…え?」 っ!浜崎さんだ。 やばい、泣き顔、と思ったときにはもう、キッチンに回り込んできた浜崎に発見されてしまっていた。 「伏野さんっ?!どうしたっすか?どこか痛いんすか?腹っすか?頭っすか?!」 うわーっ、と慌てて俺の側にしゃがみ込んだ浜崎が、ワタワタと全身を眺め回してくる。 出しては引っ込め、また出しては引っ込めているその手は何なのか。 「ど、ど、ど、どうしようっ。ちょっと触っ…でも会長が…でもちょっと触っ…いや、まずいかこれ。あの、伏野さぁん…」 ヘニャリと下がった眉が、情けないのなんのって。 思わず頬も緩む。 「ぷっ、あははは。あの、浜崎さん、ちょっと落ち着いて下さい」 笑えた。 とても自然に。 「ふ、伏野さん?」 おかげで涙も引っ込んだ。 大丈夫だ。俺は大丈夫。 「あはっ、はは。ごめんなさい。何でもないんです、本当。どこも大丈夫なので」 「で、でも…」 「本当に、大丈夫です。どこも、何とも」 そう、大丈夫。 ちゃんと立場は分かってる。 俺は火宮の所有物で、火宮に生かされているただのモノ。 そうだ、何も関係ない。 俺の気持ちがどこに向かっていようとも、俺はただ、火宮の望むまま身体をひらき、火宮が求めるままこうして側で過ごすだけ。 「大丈夫」 俺のすべては火宮のもので、俺はこうして側にいられる。 それだけでいい。 なにせ1度は捨てた命。 本来持つことすら出来なかった感情だ。 だから望まない。何も。 望む権利がないことくらい分かってる。 「あの、伏野さん?」 「あ、ごめんなさい、浜崎さん。えっと、何か用事ですか?」 にこりと、綺麗に笑えた自信があった。 「っ!あ、や、あの、今日はハウスキーパーが掃除に入る日で…」 わたわたと慌てた浜崎が、ハッと後ろを振り返った。 「玄関に待たせてあるんす。伏野さんの様子を窺ってからと思ったものですから」 「あ、そうなんですね」 「お掃除入ってもいいっすか?朝食とかまだなら、待たせますけど」 うん。なんか食欲ないからいいや。 「構わないですよ」 「そうっすか?少しバタバタしますけど、伏野さんは好きにしていてくれていいので」 「はーい。邪魔にならないようにしてますね」 「いやいや、それは向こうが気を使うことで、伏野さんは自由にしてて下さい。じゃぁ入れますね」 にっと笑って玄関に向かってしまった浜崎を見送り、俺はとりあえず顔を洗おうと洗面所に足を向けた。 洗面所の鏡に映った俺は、自分でも引くくらい目が真っ赤に腫れ上がっていた。

ともだちにシェアしよう!