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第71話
「お邪魔いたします。翼さん?お休みですか?」
不意に間近に人の気配を感じ、俺はハッとしてソファの上に跳ね起きた。
目に乗せていたホットタオルがパサリと落ちる。
「あー、いえ。もうそんな時間なんですね」
昼を何とか自分で作って食べ、その後ソファで横になってゴロゴロしていた。
見上げた時計は午後3時半をさしている。
「翼さん?どこかお体の調子でも悪いのですか?」
「え?いえ」
「もし体調がよろしくないようでしたら、勉強の方は中止しても…」
あぁ、休めていたとはいえ、まだ酷い顔してるのか。
無表情なんだけど、真鍋の瞳から心配そうな気配が伝わってきた。
「まぁ勉強しなくて済むなら嬉しいですけど、仮病とバレたときが怖いのでちゃんとやります。身体はどこも悪くないんで」
よっこらしょ、と掛け声を漏らし、テーブルの上に勉強道具を整える。
「そうですか。では」
床に下りた俺の向かいのソファに座った真鍋が、筆記用具を取り出しながら、チラリと俺の手元に視線を落とした。
「今回は随分と真剣に取り組まれたようで」
「あー、そりゃ、ね?」
「ふっ。どこかわからない箇所はありましたか?」
「え!」
笑った。この真鍋が笑った。
「何か?」
「や、いえ。わからないところですね。ないです」
「そ、うですか」
今度は軽く驚いた顔をしている。
「真鍋さんって…」
「なんでしょうか」
「あ、いえ。なんでも」
無表情だ、無表情だと思っていたけど、意外とそうでもない気がしてきた。
だからって、今それを発言しようものなら、今度は怒りっていう表情が見れちゃうこと間違いなしで、俺は賢明にも口を噤んだ。
「では疑問点がないのでしたら、どんどん次の単元に進みたいと思うのですが」
「次…」
「でもその前に、軽く確認テストをしましょうか」
言いながら、パラパラと鞄から出てきたのは数枚のプリント。
しっかり準備済みというわけか。
「テスト…」
「理解度を確認するためのものですので、気楽にどうぞ」
「はーい」
まぁ、自信はあるけどね。
英語に漢字に数学。何も言われないところをみると、どれから手をつけてもいいようだ。
俺はシャープペンを取り上げて、適当に1番上にあったものから取り組み始めた。
「これは…」
目の前で俺がやり終えたテストを採点している真鍋をのんびり眺める。
人形みたいに綺麗に整った冷たい顔が、今ははっきりと驚きを張り付かせている。
「漢字が1問間違えていますが…残りすべて正解です」
パチンと閉まった赤ペンのキャップの音が響いた。
この人も十分綺麗な顔をしているのにな。
なんで俺は火宮さんなんだろ。
真鍋さんとヤれって言われたら、絶対無理だと思うもんなぁ。
「翼さん?」
「え?あ…」
「採点、済みましたよ。上出来です」
「あ、そうですか」
まずい、まずい。
またぼんやり考えごとして聞き逃すところだった。
「漢字が1つだけ…これは木偏です」
「ん?あーっ、本当だ…」
くそー、凡ミス。っていうか、覚え間違いだ。
気づかなかった。
「1度思い込んでしまうとなかなか気づきにくいですね。とりあえず20回書いて、今日はここまでにしましょう。英単語、数学は完璧です」
「20回…はぁい」
面倒くさい、と思いつつも、そんなことをうっかり漏らそうものならどうなるか。
前回でしっかり身に刷り込まれている。
反抗せずにサラサラとノートに漢字を書き並べて、俺は向かいの真鍋を見上げた。
「これでいいですか?」
「はい。お疲れ様でした。次回までに、ここからこちらまでの範囲を予習しておいて下さい」
「うへぇ…はぁい」
また広範囲に付箋を貼ってくれて。
しかも何教科も。
「本当、スパルタ」
「何か」
「っ!や…」
やば。口に出てた?
「何でもな…」
「ふっ。本日は頑張りましたので、聞き逃して差し上げましょう」
にこりと、やっぱり口元しか笑っていない真鍋の顔にビビりつつ、スルーしてくれるというならありがたい。
「それはどーも。真鍋…センセ?」
「ゴホッ……」
え?やっぱり変だった?
「つ、翼さん…。そのような上目遣いは、会長以外になさりませんよう」
「は?」
「血の雨が降ります」
なんか似たような台詞をどこかで聞いたような。
「えーと?」
「それから先生などと呼んでいただかなくて結構」
「家庭教師なのに?」
「えぇ。むしろやめて下さい」
これまた珍しい真鍋の動揺した顔と心底嫌そうな表情が見られた。
「ふぅん。じゃぁ真鍋さん」
「何でしょうか」
「いや、その、ありがとうございました」
嫌々やってる勉強だけど、教えに来てくれているからには礼は尽くさないと。
「いえ、仕事ですので」
本当、クール。
「それでは私はこれで。失礼いたします」
相変わらず綺麗なお辞儀だし。
この人が、火宮の仕事上の右腕なんだよな。
きっと俺の知らない火宮のことを、たくさん知ってる人。
「あの、真鍋さん」
「何か?」
「火宮さんって、男が好きな人種じゃないですよね?」
あれ?俺、無意識に真鍋さんを引き止めて、何を聞いてるんだろう…。
「翼さん?」
「あ、いや、何でもないですっ!忘れて下さい」
やばい。本当、何してるんだろう。
怪訝な真鍋の表情が見えて、焦る。
「翼さん、そういったご質問は、直接会長になされて下さい」
「え…」
「翼さんにでしたら、会長は厭わず答えて下さるかと思います」
え?それってどういう…。
「私の口から会長のプライバシーに関わるお話はできません。が、会長が今までお相手にされてきた方は、みな女性でしたね。男の方は、翼さんが初めてです」
「あ、え、その…」
「これ以上は私からは何とも」
少なくともゲイではない、とは分かったけれど、だけどその前に。
「あのっ、何で俺…」
「申し訳ありません。次の予定がありますので、失礼させていただきたいのですが」
チラリと腕時計に視線を落とし、少し忙しそうな様子を浮かべ、少し迷惑そうに目を眇める真鍋。
まるで俺に質問されることを拒絶するようなその態度に、俺はそれ以上縋れなかった。
「あ、ごめんなさい。忙しいのに」
「いえ。では失礼させていただきます」
再び丁寧なお辞儀が1つ。
クールで無表情に戻った真鍋が、そのまま静かに部屋を出て行った。
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