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第75話
「おい、翼。まだか?」
「あー、後ちょっとー」
「早くしろ」
日曜日。
出かけると言っていた火宮に急かされながら、俺は洗面所の鏡と睨めっこをしていた。
「ったく、どうやって寝たらそんな派手な寝癖がつくんだ」
「あは。俺も知りたいです」
「本当、俺を待たすなんて、おまえはどこまで大物だ」
腕を組んで洗面所の入り口にもたれて立っている火宮から、呆れた視線が飛んでくる。
「すみません…」
「ふん。もうそのままでいいだろ」
ついに待ちくたびれたか、スルリと腕組みを解いた火宮の投げやりな声が聞こえた。
「えーっ、でも…」
俺も恥ずかしいけど、これを連れ歩くことになる火宮だって恥をかくんじゃないだろうか。
それにしても、鏡越しに見える火宮は、相変わらずのイケメンだ。
服装だって、お洒落なケーブル編みニットに、ブラックスキニー。羽織るばかりにしているステンカラーコートと、似合いまくっていてハイセンス。
まったく、どこの雑誌から抜け出して来た。
「構わん。出るぞ」
思わず見惚れていたら、ズンズンと鏡の中の火宮が大きくなり、強引に腕を掴まれていた。
「まだめっちゃ跳ねてますけど!」
「そのうち落ち着くだろ」
「えーっ、みっともないですって」
「許容範囲だ」
「そうかなぁ?」
まぁ最初よりは随分マシにはなったけど。
うーんと悩みながらも、火宮に掴まれていない方の手で往生際悪く髪を撫で付けながら、ズルズルと引き摺られていく。
髪ばかりを気にしていたら、いつの間にか駐車場にたどり着いていて、目の前には火宮の国産SUV車があった。
「乗れ」
「はい」
助手席のドアを開けてスマートにエスコートしてくれるところが、本当イケメン。
あまりに自然過ぎて、うっかり流される。
「ん…」
俺を乗せた後、運転席に悠然と乗り込んで来た火宮が、ステアリングに手をかけてエンジンを回す。
ごく普通の運転スタイルなのに、なんでこうも格好いいのか。
「顔?服装?仕草?あっ、オーラか!」
「は?」
「あ、や…」
「ふっ、また何を口走っているんだか。で?どこに行きたい」
クックッと人の思考を見透かすような目をして、火宮が笑う。
ハンドルにもたれるようにしてこちらを見て来た顔が悪戯っぽく緩んで、眇められた目が合った瞬間、ドキッと鼓動が跳ねた。
「ッ!」
やばい、全部持ってかれる。
「翼?行きたい場所は」
ん?と首まで傾げられては、もうお手上げ。
普段の火宮からは想像もつかないようなあまりのギャップに、魅了された目が、意識が離せない。
「翼?」
「鬼」
「は?」
「どS!」
「なんで喧嘩腰だ」
「っーー」
だって、喧嘩でも売ってないと、とても冷静でいられない。
堕ちる。どこまでもどこまでも。
「翼」
わずかに低くなった火宮の声にビクッとして、俺は全力で俯いた。
「はぁっ。せっかくの休日、抱き潰されて終わりたいか?」
「え?」
「行きたい場所を言わないんなら、ラブホにでも連れ込んで、そういった趣向の部屋で、とことん責め抜いてやろうか」
新しい世界をひらくのも一興か?と意地悪く囁かれ、慌てて顔を上げた。
「やですっ」
「じゃぁさっさと行き先を決めろ」
ふっと息を吐き出す火宮の囁きは本気ではなかったらしい。
だけど言われたことの意味がわからない。
「あの…?」
「どこでもいい。おまえの行きたい場所だ」
どういうこと?
そういえば今日って何の外出だ?
俺はてっきり、火宮の用事か何かに付き合わされるのかと思っていたんだけど。
「翼?」
「どこでもって…」
「どこでも。動物園か?買い物?別にドライブだって構わないけどな」
とりあえず、と車を発進させた火宮を、まじまじと見つめてしまう。
「なんだ。行きたいところが決まったら早く言えよ」
俺の視線を感じたか、前方に目を向けたままの火宮が笑う。
スーッとスマートにハンドルを切る火宮は、一体何のつもりか。
これではまるで、デートみたいだ。どうしたって誤解しそうになる。
「何でですか」
「ん?」
「何でこんなこと…」
期待なんかしたくない。
どうせただの気まぐれだ。退屈しのぎの遊びだ、意味なんかない。
なのに、持つだけ無駄な感情を、どうしてこんな風に戯れに揺さぶってくるのか。
「何故ってそりゃ…」
ほら、やっぱり理由なんてないんだろ。
ただの思いつき。
「褒美だろう」
「ほら…え?褒美?」
「なんだ。忘れていたのか?」
「忘れたって…」
何を。
そもそもそんなこと、聞いた覚えすらない。
「勉強に精を出したご褒美。鍋だけじゃあまりにもなんだから、出かけると言ってあっただろう?」
「へ?」
「なんだその間抜け面は」
「えーっ?!」
聞いた。確かにあのとき聞いた。
あまりに唐突なあの出かける発言…まさかそう繋がっていたのか。
「分かんないよっ!」
なんて不親切。
まったく言葉が足りてない。
「は?おまえはわけもわからずにここにいるのか」
「だって…」
「ククッ。変なところで反抗的なくせに、そういうところは従順なのか。本当、わからないやつだな」
まったく飽きないよ、と笑いを含んだ声で言われ、なんだか一気に脱力した。
「はははは…」
ブレなくペット。ブレなく所有物。
火宮はただ、自分の持ち物に餌をくれているだけなのか。
そうだよな。考えてみたら当たり前か。
「で?どこがいいんだ。このまま適当に走り続けるか?なんなら海にでも行くか?」
気づけば景色は大分マンションから遠ざかっていた。
「本当にどこでもいいんですか?」
「あぁ」
「じゃぁ魚が見たいです」
「魚?築地…じゃなければ水族館か」
火宮でも冗談を言うんだ。
それにしたって俺は何だと思われているんだろう。
「水族館ですよ。いいんですか?」
「分かった」
あっさりと了承し、ふわりと笑った火宮が、躊躇わず車線を変更した。
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