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第84話
「は?え?」
自分の目が見ているものが信じられなくて、俺は2度も3度もその相手を見直した。
「おはようございます、翼さん」
何度見直そうとも、にこりともしない無表情で同じ挨拶を繰り返したのは、間違いなく本物のその人で。
「真、鍋さ、ん…?」
「はい」
「え?まさか、勉強?」
鬼か。
思わず突っ込んだ言葉は、どうやらしっかり声になってしまっていたようで。
「人間です」
「ひっ…ご、ご、ごめんなさいっ」
凍てつくような視線に怯んで反射的にガバッと頭を下げたら…。
「痛ぁっ!」
あそこから派手な痛みがズキンッと突き抜け、ガクンと床に転んでしまった。
「翼さんっ。ご無理はなさいませんよう」
およそ感情というものが欠落していると思っている真鍋の、超レアな慌てた声がした。
同時に急いで抱き起こされた身体が、優しく丁寧にソファへ運ばれる。
「あの…」
「ご安心ください。状態は存じております」
「状態って…」
「そちらの…」
「っ!」
「私は勉強に来たわけではなく、手当てに参りましたので」
テキパキと俺をソファに寝かせ、「失礼します」なんて言ってズボンのウエストに手を掛けてくれちゃっている真鍋。
うっかりされるがままになっていた俺は、ハッとしてその手を押さえた。
「ま、待って下さいっ!手当てって…」
まさか、冗談じゃない。
手当てが必要な箇所といわれたら思い当たるのは1箇所で。
だけどそれは、あんな場所を真鍋に見られるってことで…。
「ご安心を。昨夜も手当てをしたのは私ですので」
「え?」
「夕方過ぎに突然の呼び出しが何かと思いましたら…医者へ、と申し上げたのですけどね」
「え?え、ちょっと待って…」
「ですが、見も知らぬ他人にあなたを託すのがお嫌だと。ですので私が手当てさせていただきました。まったく酷いものでしたよ。あなた一体、何をして会長をここまで怒らせたのです」
はぁっ、と溜息をつきながら、パンッと俺の手をはたき落としてくる。
ヒリッと痛んだ手から思わず力を抜いてしまったら、その一瞬の隙にズボンをスルッと脱がされてしまった。
「ちょっ…待っ…痛ぁッ!」
あまりの展開に、頭も身体もついていけなくてうっかり暴れたら、当然のように痛みが突き抜けた。
「翼さん…」
その、馬鹿ですか?と口より語っている目をやめて欲しい。
さすがに自分でもそう思っているところだから。
「くぅーっ…あぅ、でも、ちょっと待って…」
浅く呼吸を繰り返し、なんとか痛みをやり過ごしながら、俺は涙が滲んでしまった目を必死で真鍋に向けた。
「翼さん?」
「それって、み、見たってこと?」
「見ないでできることではありませんので」
そりゃそうだけど…。
「ご安心ください。私は何とも思いませんので。それがおわかりだから、会長もあなたを私に託されたのでしょう」
シラッと何の感情もなく告げてくる真鍋だけど、そんな場所を見られた俺の方はそうはいかない。
「真鍋さんが構わなくても俺が構うんですけど」
「ですが、相当な裂傷を負われていますので。お恥ずかしいのはわかりますが、どうかご理解下さい」
いや、理解して欲しいのはあなたの方ですって。
どれだけ神経が図太くなれば、コトの最中でもない、医者でもない他人に、手当てとはいえ、そんな所を晒せるというのだ。
「無理。嫌です」
「翼さん…」
まるで駄々をこねる子供を見るような呆れた目で見つめられてしまった。
だけど、どれだけ真鍋を困らせたって、やっぱり大人しくそんな場所の手当てを受ける気にはなれなくて。
「ごめんなさい。本当、俺、いいんです、このままで。傷なんて放っておけばそのうち治ります」
ちょっと痛いくらい、ちょっと長引くくらい、真鍋に見せなきゃならないことよりずっとマシだ。
そんなところの手当てなど本気で勘弁して欲しい。
「はぁっ。翼さん…」
呆れた声と溜息が落ちてきて、ビクリと身体が強張ってしまった。
この真鍋を怒らせるとどれだけ怖いか、俺は身をもって知っている。
「っ…ごめ、なさ…。でも…」
怒られるのも嫌だけど、従うのはもっと嫌。
どうしていいかわからなくて、じわりと涙が浮かんでしまう。
震えて小さく身を縮めてしまった俺に、ふと真鍋の優しい眼差しが向いた。
「え…?」
「翼さん。お辛いのは十分承知しております。それでも、会長があなたの身を案じて、どうしてもと私に託されたのですから」
「え…」
「そのまま放置なさって、化膿などされたら大変ですし、苦痛が長引くのもよくないでしょう?会長のご心配を…どうかそのお気持ちを汲んでいただけませんか」
ふわりと小さく笑みを浮かべた真鍋の手が、我儘な子供をなだめるようにポンと俺の頭に乗った。
ドクン、と心臓が脈打つ。
「ひ、みや、さんが?心配?」
「はい。ご自分でお傷つけになられておいて何を、とお思いかもしれませんが…」
「っ!嘘だっ…」
優しい声で、優しい顔で、いきなり何を言い出すんだ。
「嘘だっ、そんなのっ…」
「翼さん?」
「嫌だっ、聞きたくない!」
せっかく心を凍らせたのに。
「聞きたく、ない…」
耳を塞ぎ、イヤイヤと首を振る俺を、真鍋が困惑して見てきたのが分かった。
だけど、どうかお願い。
火宮のそれが、ただの所有物に対する気遣いでしかなくても。
火宮は自分の持ち物に対しての気遣いをしているだけに過ぎなくても。
俺は、弱い。
分かっていても、今はまだ、心が容易く揺れてしまう。
俺は愚かだ。
せっかく凍らせた心が、脆く溶け出してしまう。
俺は馬鹿だから…。
だからお願い、言わないで。
モノに対する心配ですら、今の俺には心を溶かす温もりに聞こえてしまうから。
「翼さん、ですが会長は本当に…」
やめて。
お願いだから聞かせないで。
弱くて愚かで馬鹿な俺が、実はやっぱりもしかしてなんて…悲しい残酷な期待をしてしまう前に。
「火宮さんは、心配なんてしない。持ち物の1つが、ちょっと酷くしたら、ちょっと壊れちゃったから、部下の真鍋さんに押し付けて修理させとけってだけなんだから…」
凍れ、心。
早く永久凍土になってくれ。
「翼さん…」
「っ?」
耳を塞いでいた手をそっと掴まれ下ろされる。
淡い微笑を浮かべながら、眉だけギュッと寄せた複雑な表情をした真鍋が、静かに俺の頬に手を伸ばしてきた。
「っ!」
スッと伸びてきた長く綺麗な指先に涙を拭われて初めて、俺は自分が泣いていたことを気付かされた。
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