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第85話

「翼さん…」 「っ、違ッ…。これは違…」 「翼さん」 ッーー! なんで、そんな穏やかな目をして俺を見るんだ。 薄く細められた真鍋の目が、あまりに温かく、優しくて、言葉が詰まる。 「翼さん…あなたと会長がどんな派手な喧嘩をなされたのかは存じませんが…」 「っ、ちが…」 「会長も何も好きであなたをお傷つけになったわけではないと思いますよ」 「っ…」 駄目だ。 その先を聞いては駄目だと、頭の中で警鐘が鳴り響く。 「一体どういった流れで翼さんがこのような目にお遭いになったのかはわかりませんが…きっと売り言葉に買い言葉で…会長の方は一時的に激昂なされただけでしょう」 「ち、がう…」 だからもう黙って! 必死の叫びは、嗚咽が喉に絡まってしまい、言葉にならなかった。 「っ、く…」 「ですから会長は…」 「っ、や、め…」 「会長は、あなたをただのモノなどとは、決して思っておられませんよ」 だから拗ねるな、と語られても、その言葉を受け入れてしまったら俺は…。 グラグラ、グラグラと心が揺れる。 「翼さん。会長は、本来はご自分で手当てをなさろうとしていたんです」 「っー!」 不意に伝えられた言葉が、ぐらついていた心の隙をトンッと突いた。 「ご自分で手当てをなさろうとして…ですが意識がないままでも、翼さんが本能的に痛がってお逃げになって呻くものですから…」 「っ…」 駄目だ、聞くな、俺。 「意識がない中までも苦痛を強いることが、どうしてもご自分にはできないと」 あぁ駄目だ。 これじゃぁまるで、俺が火宮にとって、とても大切な人間のように聞こえてしまう。 凍った心がじわり、じわりと温められて、溶け出していってしまう。 「ですからきっと、会長の方も後悔なされていて。なので翼さんも、いつまでも頑なに意地をお張りにならないで、素直に会長のご心配と手当てを受けていただけませんか」 「っ、いやだ…。ち、がう、んだ…」 泣きながら首を振り続ける俺が、真鍋にはどう映っているのか。 根気強く説得しようとしているらしい真鍋の眉がさすがに顰められた。 「翼さん…会長のお心は、あなたには届きませんか?会長には、きっとあなたの言葉なら、きちんと届くと思いますよ。ですからこの手当てを受け入れ、早く仲直りをなさって…」 ち、がう。 「違うっ!俺の言葉は火宮さんには届かないっ!火宮さんの心は…」 「翼さん?」 「火宮さんの心は、俺には届かない。だって火宮さんは、俺のこと、ただの所有物以上には見ないって言った。俺はただのモノで、それ以上には決してならない。だから真鍋さんの言葉は、全部嘘。真鍋さんの勘違いで、ただの幻…」 そう俺も、俺も同じように勘違いしていたんだ。 火宮の優しさは、どんなに心が入っているように感じても、持ち物に対する愛着以上の何ものでもない。 そこに俺という人間に対しての愛情も慈しみもない。 俺ははっきりそう言われた。 そう、フラれた。 「会長がそう?」 「はい。はっきりと。だから俺は…だからこうして酷く抱いてもらったんですっ。人として愛されることがないのなら、いっそどこまでもモノに落として欲しいと…」 「っ、それで…。それで会長は、あなたをこのように?」 「っ、ん…」 「…はぁぁぁっ。まったく、何をやっているのです。あなたも、会長も」 目眩が、と言わんばかりに額に手を当てて、真鍋が小さく呻いた。 『このクソ餓鬼ども…』 「え?」 今なんか、真鍋らしからぬ低い粗野な声が聞こえた気がしたけど。 「じゃぁ何ですか?あの方は、ご自分で引き起こしたこの現況に、自分で苛立って腹を立てて、昨夜からのあの不機嫌だということですか…」 「ま、真鍋さん?」 「周囲に不機嫌オーラを撒き散らして、無駄に部下たちを怯えさせて?それで、自分で覚悟してやらかしておいて、やっぱり痛がるから、可哀想だから、私に預けて丸投げですか?呆れてものが言えない。はっ、馬鹿馬鹿しくて付き合いきれません。翼さん」 いきなり何やらブツブツぼやいた真鍋が、不意に顔を上げて俺を見つめた。 「私の気遣いは何だったのですか…。さすがにこんな…心を砕くのが心底馬鹿らしくなりました。もうなんでもいいからさっさと手当てをさせなさい」 「っ、あのっ…なに…」 「こうなりましたらもう力づくでも手当てさせていただいて、もうお一方のこじらせている方に文句の1つでも言いに行かなければ気が済みません」 「あの…」 やけに表情豊かに苛々と顔を歪め、目を据わらせている真鍋の様子に俺はついていけない。 「その、真鍋さん…?」 「無理やり剥がれるのがお好みですか?」 「や…」 な、なんだか真鍋がトチ狂っている気が…。 「余計な苦痛を受けるのがお嫌でしたら、さっさと脱ぎなさい」 「ひ、はい…」 ギロッと向けられる視線が怖くて、俺は散々渋っていたはずの手当てを、反射的に受け入れることになってしまった。 「まったく、会長が会長なら、あなたもあなたですよ…」 「ひぃぁっ、痛っ、痛いッ…」 「酷く裂けていますからね。ですがご自分で煽られた結果でしょう?少し我慢なさい」 「くぅーッ…」 本当、どS。鬼真鍋。 火宮の比じゃないサドっぷりは、いっそ清々しいほどだ。 「やーっ!痛いー」 軟膏だかなんだかを塗ってくれるのも沁みて痛ければ、その指先の動きも恐ろしいほど優しくない。 傷の上を平気で辿って、時折わざとかと思えるようにツプッとナカに入り込んできたりする。 しかもそれで身動ぎしようものなら、反対の手でパシッと尻たぶが張られるのだ。 「じっとしていてください」 「っ!だからっ、いちいち叩かなっ…痛ッー!」 ぶたれる痛みはそこまでじゃなくても、それが傷に響くからたまらない。 手当てだと言うのに、なんでこんな辛い目に遭わなきゃならないのか。 どう考えたって真鍋の私情が入っているとしか思えない。 「もっ、もういい…っ」 「そうですね。最後にきちんと確認して…」 言いながら、グイと双丘を割り開かれたからたまらない。 散々見られたとはいえ、蕾に空気が触れるほど大袈裟に露出された感覚に、頬がカァッと熱くなった。 「いやぁーッ!」 「ん。よろしいでしょう」 まるで課題を確認するかのような淡々とした声が居た堪れない。 「では衣服を戻していただいても構いませ…翼さん?」 も、無理。 「おや」 本当、勘弁して。 「仕方ありませんね…」 痛みと、疲労と、羞恥のあまり、俺はもう指先1本動かせない。 こうなる前まで、もっととても大事な、白黒はっきりさせとかなきゃならない大切な話をしていたはずなのに…。 それすらももうどうでもよくなってきた。 いや、このままうやむやにしたいのか、俺は。 あぁ、意識が静かに遠ざかっていく。 それが現実逃避だとしても、それでいい。 「あり、が……ご…ま、す…」 一応の礼儀として漏らしたお礼の言葉は音になったのか。 そうだ。このまま眠ってしまったら。 眠って、起きたら、きっと忘れてる。 揺れる心も、聞きたくなかった真鍋の言葉の真実も。 きっときっとまた氷の中に閉じ込められる。 「俺はモノ…。心なんてない…」 言い聞かせるように静かにそっと呟いた声があったかなかったか。 俺は、ズボンを履き直す余裕もなく、そのままパタリと闇に落ちた。

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