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第86話
ボソボソと、低い話し声が聞こえて目が覚めた。
何だろう?と思って身体を起こしたこの場所が、いつの間にかいつもの寝室で、衣服もきちんと整っていることに気がついた。
あのまま寝てたのか。
目覚める直前の記憶は、真鍋にあまりに意地悪な手当てを受けたところだった。
真鍋さんが履かせてくれて、運んでくれた?
他にいないし、と思いながら、俺はふと話し声のする方に目を向けた。
それはどうやら、しっかりと閉め損ねた寝室のドアの向こう側からのようで。
リビングの方から薄く明かりが差し込んでいた。
真鍋さんと…火宮さん?
そっと聞き耳を立てた会話は、聞き覚えのある2人の声だった。
何だろう…?
相変わらず何を考えているのかよくわからない単調な真鍋の声と、微かな苛立ちを含んでいる気がする火宮の声が交互に聞こえる。
喧嘩?
ヤクザの幹部と最高幹部のそれは、もしかしてシャレにならないんじゃないだろうか。
「っ…」
慌ててそぉっとベッドを下りて、話がはっきり聞こえる位置まで移動した俺は、気配を殺してそっと会話を盗み聞きし始めた。
『…さすがにお可哀想かと…』
『…よく言う。おまえだって初めはいつものように傍観を貫いていたくせに』
『それは…会長の害にならない限り、会長がどなたを囲おうと、どんな愛人をお連れしようと、私は干渉する気はありませんので』
一体何の話をしているのだろう。
愛人って、俺?それともまた別の…。
ふと、いつだったか火宮から香った女性の匂いを思い出した。
『ふん、それが今はなんだ?やけに翼の肩を持つ。まさかおまえ、あいつの世話をするうちにあれに惚れたか?』
『悪い冗談はおやめください』
え?俺?
いきなり火宮と真鍋の会話に名前が上がったのが聞こえ、ビクリと身が竦んだ。
『冗談、か?本当に?』
『何をおっしゃりたいのか分かりません』
『ふん、誰にも興味を示さない。無表情の無感動。冷酷無慈悲と名高い蒼羽会幹部、真鍋能貴(よしたか)が、翼にだけはそんな風に慈悲を見せる。表情を動かして見せ、俺に意見してまで味方をする。その理由は』
ピリリとした火宮の苛立ちが、寝室にいる俺のところまで伝わってきた。
『情が湧いたという他に何がある』
傲慢で尊大な火宮の声だった。
真鍋に対しては、火宮はそんな風に話すのか。
半端のない威圧感を放つ火宮の正面に見据えられているはずの真鍋は、それでも平然と…いや、むしろ挑むように、冷笑と呼べるような、冷たい笑みを浮かべていた。
っ!なんて顔…。
俺は、話題が自分のことだということも忘れ、その冷ややかな表情に思考も視線も全てを奪われた。
怖い…。
ゾクリと身を震わせた寒気は、決して気のせいではない。
恐怖に縮こまる心臓をなだめながら、俺はそっと真鍋たちから視線を外した。
『ふっ、く、くくくっ』
『何が可笑しい』
『お言葉ですが、会長。ご無礼を承知で申し上げますが、先ほどの発言、そっくりそのままあなたにお返し致します』
ふっ、ふふっ、と堪え切れずに漏れてしまうといった様子の真鍋の笑い声が聞こえ、俺はガバッと視線をリビングに戻していた。
『何だと?』
殺人的な視線、というのは、こういうのを言うのだろう。
物理的な力さえも持ちそうな鋭い睨みが、火宮から真鍋に向く。
地を這うような低い声は、それを直接向けられているわけではない俺ですらビクリと震え上がるほどだ。
なのにそれを真っ向から向けられているはずの真鍋は、それでも余裕に笑み崩れていた。
『ふふ、冷酷非情、どんな女性に言い寄られようとも、決して靡かぬ難攻不落の孤高の男と名高い、蒼羽会会長、火宮刃が…情人との外食など相手の要求で義務的にするだけの男が、相手が望んで、自分の暇潰しと手慰みのためにしか女性を抱かないあなたが…』
え…?
『モノと嘯く翼さんにだけは、丁寧に心を砕き、これでもかというほど気を遣い、相手が望まぬ身体を敢えて開かせ、手料理を要求してそれを口にする』
っ、な、に…?これは、何の話?
唇が震えてわなないた。
グラグラと、揺れる心に酔ってしまいそうだ。
『ふっ、その理由は何ですか?』
『真鍋っ!』
『しまいには、苦痛の中で相手を犯すことを好まぬあなたが、ただ翼さんが望んだというだけで、自分の性的嗜好を曲げてまで、翼さんの要求に付き合ったそうじゃないですか。あなたがただの伊達や酔狂で、そこまでする人間でないことくらい、私は存じておりますが?』
っ…。
真鍋さんの言葉が本当なら…。
それが本当の話ならば…。
聞こえてきた話に、心が震える。
次に響く火宮の言葉に、否が応でも期待が高まる。
『翼はただの所有物だ。少々物珍しく毛色の変わった、多少の融通をきかせたくなる程度には俺を楽しませられる、ただの…』
『まだお認めになりませんか?いっそ代わりに私がスッパリ刺し貫いて差し上げましょうか』
『何を認めろと言う!翼はモノだ。ただの俺の持ち物だ』
あぁ、火宮さん…。
その言葉自体は、期待を打ち砕く言葉なのに。
駄目だよ、駄目だ。
それじゃぁ嘘だって白状しているみたいなものだよ…。
そんな風にむきになって否定して、声を震わせて動揺したら。
俺は、俺は期待してしまう。
嬉しくて心が跳ねてしまう。
駄目だよ、今更。
せっかく、せっかく諦めようと、こんなに痛い思いをしてるのに…。
ギュッと掴んだ胸元の服が、手の中でグシャグシャに皺になった。
『嘘おっしゃい』
『っ!真鍋おまえ、何様だ』
スパッと火宮を糾弾した真鍋の声に、火宮の思い切り動揺に振れた声が返った。
『あなたの右腕と自負しております』
『ならばっ…』
『はい、ですからあなたがカラスは白いと申しましても、誰がどう見てもカラスは黒いので。私はカラスは黒ですよ、ときちんとお伝えしたいと思っております』
『真鍋っ…』
強っ…。
真鍋の平然とした声に、火宮がタジタジになっているのが分かった。
これではどちらがボスで、どちらが部下か、主従がわからない。
『以前に浜崎を…翼さんにご自分よりも先に懐かれたというだけで排除なされようとしたのは何故ですか?』
『それは…別にそういう理由では』
『ご自分でご許可を出されておいて、本当に私が翼さんを打ち、苦痛に泣かせましたところ、報告してから丸一日ずっと、ネチネチ、グチグチと私をいびって下さったのはどこのどなたです』
『なっ…』
『翼さんが泣いた様子で起きてきたらどうしたかと動揺して仕事が手に付かず、浜崎から翼さんが泣きじゃくっていたと報告を受ければ、気分転換に外出させるからと遠出に対応できる部下を配置させ、仕事を無理矢理前倒しさせて日程をおあけになる』
「っ…うそ…」
全身を突き抜けた衝撃に、思わず息を飲んだ。
『これが、所有物以上の扱いでなくて、何だというのです』
『やめろ、真鍋』
『申し訳ありませんが、やめません』
『真鍋!』
『罰なら後ほどいくらでもお受けいたします。ですが、会長』
ふと、静かに言葉を切った真鍋が、ゆっくりと息を吸い込んだ。
『あなたは、翼さんを…』
『言、うな…』
『翼さんを本気で愛しておられる』
火宮の制止も虚しく、真鍋の言葉は放たれた。
火宮の息を飲む音と、俺の鼓動が跳ね上がった音が重なった。
『認めない…』
小さく唸るように響いた火宮の声が、静かにリビングの空気に後を引いた。
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