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第87話

『認めない…』 え? 火宮の声が、喜びに沸きかけた俺の心に水を差す。 『はぁっ、会長。それは、天束聖の呪いですか』 『っ!その名を口にするな!おまえでも許さん!』 ひ、じり…? 誰、それ。 ふと、何だかやけに頭に引っかかる、真鍋の言葉だった。 『ふっ、蒼羽会会長とまで上ってこられたあなたが、いつまでそんなものに縛られるおつもりか』 『うるさい、黙れ。もう出て行け!』 『そんな過去の亡霊に縛られて、いつまで現在のお気持ちから目を逸らせ続けるおつもりか』 『おまえには関係ない!』 苛々と、突然怒り出した火宮の様子が、とても不可解だ。 それなのに真鍋は構わず、火宮の逆鱗を撫で回しているように見える。 『関係なくありません。大いに関係あるから、こうしてこれまではずっと無干渉を貫いてきたあなたの情人に関して、今回ばかりはご意見申し上げているのでしょう?』 『っ、何の関係があるという。おまえはいつものように、一時の俺の退屈を凌ぐ玩具の世話を、大人しくしていればいい』 ジリジリと、身を焦がすような怒りのオーラを火宮は放っているのに、それを物ともせずに平然と対峙している真鍋はすごい。 『いつもの、いずれお飽きになる情人でしたら、そうさせていただくつもりでした』 『ならば…』 『ですが、翼さんはそうではあられない』 『何をっ…』 『先ほど会長は、私が何故、翼さんには慈悲を見せるのか、味方をするのかとおっしゃいましたよね?答えは簡単です』 『はっ…だからそれはおまえが…』 『翼さんが会長の大切な方だからです』 パキン、と心のどこかで、氷に亀裂が入った音がした。 「っ…」 じわり、じわりと溶け出す氷が、温かい雫に変わっていく。 『何度もふざけたことを抜かすな。あいつはただの…』 『お気づきでないのならお教えします。翼さんがこちらに来てからというもの、会長の調子はうなぎ登りで、ご機嫌も麗しく、それまで以上に精力的に仕事が進んでおります』 『っ…そんなのは偶然…』 『いいえ。そもそも、何故出会って間もない少年を、あなたは自宅にお迎えする気になりました。今まで一度も、女性を…情人を家に入れたことすらないあなたが』 ポタリ、と寝室の床に涙が落ちた。 『翼さんと何かあると、途端に機嫌が低下し、仕事の効率も目に見えて下がられる。部下たちを無駄に威圧し、そちらへの影響も甚だしい。私が翼さんを懐柔して、会長のご機嫌が直るよう取り持とうとあれこれ心を砕くのは当然の役目かと思いますが』 あぁ、やけに優しく感じた真鍋の手や言葉は、そんな裏があったのか。 『いい加減、お認め下さい』 『っ、真鍋、黙れ』 『いいえ、もう1度…いえ、会長がお認めになるまで何度だって言いましょう』 『やめっ…』 『あなたは翼さんを愛しておられる』 ガクン、と全身から力が抜けた。 真鍋の主観じゃない。真鍋が話していたことが、本当に事実だというのなら、俺にだってわかる。 火宮の想いが、火宮の気持ちが本当はどこに向いているかってこと。 「翼?」 「っ!やば…」 脱力したまま、うっかり目の前の扉に縋ってしまったから。 転んでしまいそうな身体を、とっさに預けてしまったから。 きちんと閉じていなかったドアは、それだけでスゥッと開いていってしまった。 「っ…」 「ふっ、翼さんが盗み聞きなされていることにすらお気づきでないほど動揺なされていたことの意味を、よくお考えになって下さい」 「真鍋、おまえまさか」 「あれだけ気配をさせて、荒い息遣いに息を飲む音まで立てられていて、気づかないわけがないでしょう?」 え。真鍋さんは気づいていて、知らん振りを? 「翼さん、お聞きの通りです。あとはお2人でごゆっくりと話し合われて下さい」 「っ…俺…」 「あぁそうですね。盗み聞きなどというはしたない真似をなされたお仕置きも、どうぞ会長から。私はそれで構いませんので」 「なっ…」 「おい真鍋!」 うっかりリビングに姿を見せ、しっかり盗み聞きがバレた俺の動揺と、もとから動揺している火宮を無視して、真鍋がさっさと退散しようとしている。 「それと会長、散々のご無礼と楯突くような発言、咎は後日いくらでもお受けしますので」 「っ、待て…」 「言いたいことはそれだけです。それでは私は失礼させていただきます」 完全にパニックになっているこの状況を置き去りにして、こんなときにも見惚れるほど綺麗な真鍋のお辞儀が優雅に向けられる。 「真鍋!」 「っ…あぅ…」 こんな状態で2人きりにされてどうしろと? 完全に困惑しかない状況を放置したまま、真鍋の姿がさっさと部屋から消えていく。 「くそっ…。はぁ、翼…」 「っ、は、はい。ひ、火宮さん?」 そうして真鍋の消えたリビングには、恐ろしく気まずい俺たちだけが残された。

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