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第88話

「はぁっ…」 深い溜息が何度も聞こえ、その度にビクビクと身が竦んでしまう。 ど、どうしよう…。 きっと多分、さっきの真鍋との会話は、俺には聞かれたくなかったんだろうと思うから、どんな顔をしたらいいのかわからない。 「はぁぁっ…」 「っ…」 何度も繰り返される溜息に、さすがに居たたまれなくなってきた瞬間、ふと、何かを覚悟したような火宮の吐息が聞こえた。 「ふぅっ。翼」 「っ、は、い…」 スイッと俺に向いた火宮の視線は、盗み聞きを咎めるようなものでもなければ、それまでの苛立ちも、だからと逆に優しさも何もない。 凪いだ海面のような静かなものだった。 「とりあえず座れ」 「っ、はい…」 寝室とリビングの境界にボサッと立ち尽くしていた身体が呼ばれる。 俺はまだ歩くとピリピリ痛むお尻を庇いつつ、何とか火宮が座った向かいのソファに腰を下ろした。 「ふっ、痛むか」 「え…あ、ぅ…」 俺のぎこちない動きのわけを察しているのだろう。 小さく笑った火宮の目が、何故か自分の方がよっぽど痛そうに細められた。 「火宮さん…?」 「いや、済まなかったな、と思ってな」 「え…」 な、何が起きた? 火宮が口に乗せた言葉の意味が、全く理解できない。 ポカンと開いてしまっただろう口を、火宮に笑われる。 「クッ、間抜け面」 「え、あ、あの…?」 あまりに衝撃が強すぎて、頭の芯がジーンと痺れたようになったまま動かない。 「いくら望まれたからとはいえ、酷いことをしたな」 許せ、と言われても、そもそもそうさせたのは俺で、何1つ火宮に落ち度はない。 「やっ、やめて下さい!火宮さんは何にも悪くないです。これは俺が…」 ブンブンと頭を左右に振った視界の端で、火宮のとても苦しそうな表情が揺れた気がした。 え?何で火宮さんがそんな顔…。 「翼…」 「っ!火宮…さん…?」 「俺が悪い」 「っ…な、にを…」 まさか。この火宮が。 極道のトップで、会長とまで呼ばれるほどの人物が。 今、頭を下げた…? 「っ…」 それは一瞬のことで、あまりに浅く短いそれだったけれど、確かに…。 「ひ、みや、さ、ん…?」 スゥッとゆっくり瞼を伏せて、次にゆっくりと開いた火宮の目には、静かな決意が固まっていた。 「俺は、自分の気持ちと向き合うことを厭って、おまえを酷く傷つけた」 「っ、そ、れは…」 「真鍋に指摘されて、真鍋に唆されて認めるのは癪なんだが…」 「っ!」 辛い、苦しげな表情。 綺麗に整った火宮の顔が、今は酷く不確かな感情を映して揺れている。 「っ、駄目…」 「翼?」 「似合わないからっ…」 そんなに頼りない、そんなに辛そうな顔は。 いつだって傲慢で、どSで、意地悪で、不敵で。 火宮には、そんな表情が似合う。 だから、こんなに辛そうに顔を歪めるくらいなら、無理矢理向き合わなくていい。 「やめて下さい」 「翼…?」 「火宮さんは何も悪くないです。火宮さんはただ、俺の我儘を…ただの所有物の言うことを、寛大に聞き入れてくれただけ」 「っ、翼、違う」 「違いませんよ。あなたはただ、ペットの望みを叶えてくれただけなんだから」 だから、認めなくていい。 そんなにらしくない顔をしてまで、無理に自分の気持ちと向き合わないで。 それがどんなに俺にとって嬉しい答えでも、火宮が辛いんなら意味がない。 火宮を苦しめることならば、俺はいくらだって心を凍らせられるから。 「もうやめましょう?俺は…俺は何にも聞かなかった。真鍋さんとの会話なんて、何にも…」 「翼。おまえは、強い」 「っ、な、にを…?」 「強くてしなやかで…だから俺は」 ピクンと肩が小さく跳ねた。 計算が働く頭とは裏腹に、心が期待で高鳴り出す。 「っ…」 聞きたい。 だけど苦しそうに眉を寄せる火宮の顔は見たくない。 矛盾する思いが、俺の中をぐるぐる回る。 「だから俺は…」 微かに掠れるその声から、火宮の緊張が伝わってきた。 同時に言葉の端から火宮の決意も滲んでいて、俺はその先の言葉に嫌でも期待が高まり、ゴクリと喉を鳴らした。 「だから俺は、おまえに惹かれた」 「っ…」 「翼。おまえは…おまえはただの所有物なんかじゃない。ペットなんかじゃ…」 「っ…」 あのとき、はっきりと断言された言葉が揺らぐ。 期待が、最大限に高まる。 同時に、その先を聞いてしまったら俺はどうなるのか。 とてつもない恐怖も高まる。 バクバクと鼓動が激しく脈打って、緊張が最高潮に達する。 「翼、俺は、おまえを1人の人間として大切に思っている」 っ! ドクンッと心臓が大きく跳ねすぎて、そのままショックを起こして死んでしまうかと思った。 それほどの衝撃が、全身を突き抜ける。 「今更何をと言われるだろう。それでも俺は、もう逃げずにきちんと受け止めようと思う」 「ひ、みや…さ、ん…?」 目の前が、じわりとぼやけて滲む。 「翼。俺はおまえを、愛してる」

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