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第113話
そうして連れて来られた会長室。
火宮はパソコンの画面を眺めながら何やら仕事をしていた。
「あ、の…」
表情のない火宮が、何だか冷たいオーラを纏っているような気がして、ドアを一歩入ったところで立ち竦んだまま動けない。
ここまで送ってくれた真鍋は、俺を置いた途端さっさと退室してしまった。
「火宮さん…?」
「あぁ、少し待ってろ」
一瞬、チラリと視線を向けてくれた火宮の目は、すぐにパソコンの画面に戻ってしまった。
「ソファに座っていていいぞ」
視線はパソコンの画面に向けたまま、声だけが放たれる。
俺は、こんな入り口に突っ立っているのもどうかと思い、その言葉に従うことにした。
や、やっぱり何か怒ってる…。
無表情で時折キーボードを叩く火宮は、感情の起伏を露わにしているわけではない。
ただ何となく、不機嫌なんじゃないかという感じがする。
「電話、まずかったなー」
はぁっ、と思わず溜息が漏れた。
そっと窺った火宮の口元が、緩く吊り上がる。
「クッ、悪いと思っているのはそこか」
「え…?」
「俺は、もっと別のことを反省して欲しいと思っているんだがな」
スゥッと目を細めた火宮が、タンッとキーボードを一際大きく叩いた。
その顔が、ゆっくりと俺に向く。
「っ、な、なんですか…」
火宮の表情には嫌な予感しかしない。
「ふっ。勝手に外出しようとしたんだって?」
ゆっくりと椅子から立ち上がり、わざとらしく1歩1歩焦らすように歩いてくる。
サディスティックな笑みを浮かべた火宮が、ズンズンと迫ってきた。
「っ、し、仕事は?」
「気にするな。終わった」
「えーと、えーと、じゃぁ、何か飲み物とかっ…」
「今はいい」
「っ、えーとそれじゃぁ…」
「翼」
っ!
完全ロックオン。
鋭くなった火宮の声と視線が、ピタリと俺に合わせられた。
「っ、だって…それは」
「ん?何だ、言い訳か?」
「っ…言い訳って…」
何だかはなから話を聞いてくれる気のなさそうな火宮の様子に、ぐっと言葉が詰まった。
「ふん。何故勝手に外に出ようとした」
「っ…ちょっと、シャープペンの芯が欲しくて…」
「そんなもの、下のやつらに買いに行かせればいい。何故わざわざ自分で出かけようとした」
俺が座った向かいのソファに腰掛けた火宮の視線が、真っ直ぐに俺を射る。
「だ、って…そんなちょっと、悪いと思って」
「やつらはそれが仕事だ」
「っ、でも…すぐ側のコンビニくらい、自分で行ってもいいかなーって」
「許可していない」
にべも無い対応をされて、何だかムカっと腹が立ってきた。
「きょ、許可って…だって…」
俺は火宮のものだけど、もう所有物ではなくなったはずで。
「ふっ、まぁ、どうせ出られなかったようだがな。おまえの指紋登録をしていなくて良かった」
「なっ…」
何それ。
俺、恋人になったんだよね…?
まるで軟禁状態にホッとしたような発言。
俺を閉じ込めておくことが、出入りを管理下に置くことが、当たり前のような。
「俺って、火宮さんの何?」
「は?突然何を…。おまえは俺の恋人だろう?」
寝ぼけているのか?と呆れられても、その単語はなんの重みもなく俺の耳を通り抜けていった。
「じゃぁ、エレベーターの指紋認証、登録させて下さい」
「必要ない」
「っ…」
当然の要求のつもりだったのに、一刀両断ときた。
火宮の言っていることがわからなくて、俺はギリッと奥歯を軋ませた。
「翼、俺はな…」
「っ、火宮さんっ!」
何かを言いかけた火宮の声を遮ってしまったのはわかった。
だけど、モヤモヤしてきた気持ちが暴走する。
「俺っ…バイトしたいと思っているんですけど…」
「バイトだと?」
「はい。いい、ですよね?お金、俺だって少しは稼ぎた…」
「翼。おまえがバイトをする必要など、それこそない」
「っー!」
やっぱり、この人、は…。
「生活に不自由させているつもりはないし、欲しいものは全部俺が買ってやる。この先生涯にわたって、おまえに金の苦労も心配もさせる気はない。おまえは金のことなど一切気にせず…」
「もういいっ!」
「翼?」
「もういいですっ。もう話すことなんてない…」
バンッとソファの座面を両手で叩いて、俺は勢いよく立ち上がった。
「おい、翼」
「ごめんなさい。俺が、我儘を言い過ぎたんですよね?ははっ、バイトしたいとか、自由に外出したいとか、調子に乗りましたね、俺」
恋人って、そういうものだと思ってた。
「翼?」
「そう、ですよね!だって俺は、借金額で買われた元所有物でっ、恋人にしてもらえたからって、何もかもが自由で対等になんかなるわけなかったんですよねっ」
やばい。目の前がぼやけてきた。
泣くな、俺っ。
「翼、おまえなにを…」
「分かりました。ごめんなさい。火宮さんの言う恋人っていうのは…火宮さんが望むのは、こうやって束縛して、全てを支配して…。それを従順に大人しく受け入れる俺、なんですよね」
「翼、俺はそんなこと…」
「いいんです。ごめんなさい。俺が悪かったです。勝手に外に出かけようとしてすみませんでした。電話も出ずに…心配もかけて、ごめんなさい」
これ以上ないというくらい、深々と頭を下げた。
そのせいで、目に浮かんだ涙が重力に負けそうだ。
「っ…ごめんなさいっ…」
泣くな、俺。
ここで泣いたら、それこそ惨めだ。
必死で食いしばった唇が痛んだ。
握り締めた拳が震える。
俺はひたすら涙を堪え、パッと踵を返した。
『俺は恋人っていうのは、もっとお互いを尊重し合える関係だと思ってた…』
ポツリと落とした呟きは火宮の耳に届いたのか。
「翼っ!」
引き留めるような声が背後から聞こえたけれど、俺はそれを振り払うように会長室から飛び出した。
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