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第112話

「ん?…んー?」 カチカチカチカチ。 鬼のようにシャープペンを連打する。 けれど一向に芯が出てくる気配がない。 「あー、なくなっちゃったんだ…」 後ろの芯を入れる部分を開けてひっくり返しても、うんともすんとも言わない。 「買わなきゃ…。でもなんか、こんな芯だけお使いを頼むのもなぁ…」 今日はもう食材は揃っているし、他に入り用なものも思いつかない。 「近くにコンビニあったよなー。それくらい、ちょこっと行ってきてもいいかな…」 まだここへ連れて来られたばかりの頃、外出禁止と言われて、今まで1人で出掛けたことはないけれど。 「もうペットじゃないしなぁ」 その言いつけはもう無効かなとも思う。 「よし。ちょっとだけ…」 様子も窺いたいと思いながら、俺は外に出てみることにした。 「ん。まぁ監禁されているわけじゃないから、そりゃ普通に開くよな」 玄関の扉を開けて、靴を履いた足を外に踏み出す。 んーっ、と伸びをしながら、何気なくドアから手を離した俺は、パタンと後ろで閉まったドアと、ウィーンと鍵が掛かる音を聞いた。 「本当、ハイテクだよなー。オートロックって。便利…あ」 鍵いらず、と感心しかけた俺は、ハッとあることに気がついた。 「待って。これ俺、帰れない…」 いつも外出時は火宮と一緒だから、この扉に俺の静脈は認証されていない。 つまり鍵が開けられない。 「あー…ま、いっか。戻ってきたら、浜崎さんを呼んで開けてもらえば」 そのくらいならいいだろう、と考えたところで、ふとさらにあることに気がついた。 「あれ?中に入れないのにどうやって呼ぼう…」 内線電話は、当たり前だが部屋の中だ。 下の階に詰めている、とは知っているけど、それが何階で何号室かは聞いていない。 「これはちょっと…。あ、そうだスマホ」 仕方ないから事情を説明して、真鍋にでも浜崎に連絡を取って貰おう、と思ったところで…。 「やば。スマホ忘れてきた」 あまり携帯する習慣がなく、基本的に放置の不携帯のスマホだ。 今日ももれなくリビングに置き去りだ。 「これって誰か来るまで閉め出しってこと?」 たまたま浜崎が訪れるか、真鍋が家庭教師に来るか、火宮が帰宅するか。 可能性としてはその辺りの状況になるまで、俺はどうやら家に入れないことに気がついた。 「はぁっ。考えなさ過ぎた。仕方ないから、とりあえず芯だけ買ってこよ…」 せめて目的だけでも達成しようとエレベーターに向かったところで、さらなる事実に辿り着いた。 「そうだった…。指紋認証…」 この階直通エレベーターは、特定の登録者しか動かせない仕組み。 普段は火宮が操作するからすっかり忘れていたが、これまたやっぱり俺の登録はない。 「本当…このセキュリティって…。賊が入って来れないのと同時に、もし何かの間違いで浸入できても、今度は脱出できないってことね…」 はぁっ、と思わず溜息が漏れた。 「あーぁ、何やってんだろ。よくよく考えたら、俺、お金持ってないし」 スゴスゴと部屋の前に戻って、ドアに寄りかかってペタンと床に座り込む。 買い物に行くも何も、火宮からは直接現金は一銭も与えられていないことに思い至った。 「何なんだ俺…」 あれも火宮、これも火宮で、火宮がいなければ外出1つ出来ない。 依存というわけではないが、これではあまりに立場がないではないか。 「指紋とか静脈とか、今度登録してもらおう…。買い物とかも自分で行けるように交渉して…そうだ、できればバイトもしたいな」 何から何までお世話になっている状態が、これでは駄目だと思った。 「だって、こっ、恋人だしね…」 火宮の部下をパシらせてのうのうとしているのは嫌だし、もう所有物じゃないんだ。 経済力で対等になんかなれないことはわかっているけど、少しでも自分のものや食費くらいは買ったり入れたりできるようになりたい。 「うん、よし。今日帰って来たらお願いしてみよっと」 うしっ、と気合いを入れたところに、ふと小さな機械音が響き、エレベーターの扉が開いた。 「あ、浜崎さん」 ナイスタイミング。 何時間と待つことを覚悟していた俺は、ほんの数分でタイミング良く訪れてくれた浜崎に感動した。 「よかったですー。配達?お掃除…?まぁ何でもいいですけど…」 「ふ、伏野さんっ?!何でっ?何してるっすか?!」 ドア開けてー、と駆け寄った俺を、浜崎のまん丸になった目が見下ろしてきた。 「え?」 「真鍋幹部から連絡が来て、会長が何度も伏野さんの携帯に電話を入れたけど出なくて、寝ているとかならいいけど、何かあったんじゃないかって、心配だから様子を見て来いって…」 「火宮さんが?あちゃー、実はスマホ、中に忘れちゃって」 火宮さん、電話くれてたのか…。 「忘れ…って、何で外にいるっすか?!」 「えーと…?」 「オレっ、もう本当、もし中で倒れてたらどうしようって…」 心配で慌てて、とワタワタしている浜崎が、怒りながら焦っていた。 「あー、ごめんなさい。ちょっと外出してみようかなー?なんて気軽に考えて…そしたら戻れなくなっちゃって」 「無事ならよかったっすけど…伏野さん、勝手に外出は…」 駄目なんじゃ?と首を傾げている浜崎が、ポケットからスマホを取り出しながら、部屋のドアを開けてくれた。 「とりあえずどうぞ」 「ありがとうございます」 ハイテク機器を解除してくれた浜崎に頭を下げて、ホッと室内に戻る。 とりあえずスマホ、と思ってリビングに向かった俺の後ろで、浜崎のしゃちほこばった声が聞こえた。 「お、お疲れ様ですっ、真鍋幹部」 あ、報告ね。 「はいっ、そうっす。無事っす。…え?はい…な、なんか外出したかったそうで…はい…フロアに…はい…」 うわー。フロアに閉じ込められた間抜けなボケまで伝えるの? 報告だから仕方ないんだろうけど、あまりに馬鹿すぎて恥ずかしい。 ガチガチに緊張している浜崎の声を聞きながら、俺は手にしたスマホを見下ろした。 「うわ。着歴4件…火宮、火宮って…。急用だった?それとも夕食の連絡?」 1つだけ数分置いているが、後はほぼ連続でついている着信履歴。 折り返すべきか?と考えたところで、通話が終わったらしい浜崎が近くにやって来た。 「伏野さん、迎えが来るそうっす。外出の支度をして待って下さいって」 「へ?はぁ…」 「それと、聞いて下さい!その電話で、真鍋幹部の後ろの方から、会長の美声が聞こえてきたんすよー」 ポーッと夢見がちになっている浜崎が気持ち悪い。 「あの…」 「低くて、ちょっと不機嫌ぽかったっすけど、やっぱりいい声っすねー。感激っす。役得、役得」 うっとりと感激しながらスマホを握り締めている姿がちょっと怖い。 「声なんて…」 話しかければいつでも聞けるだろうに。 「なんすか?そりゃ、伏野さんは毎日毎晩四六時中、会長のお声を聞けるでしょうけど…」 「あー?」 「オレら下っ端にとっては、会長のお声が聞ける機会なんて、本当レアものっすよ!オレらが直接会長に話しかけるなんてとんでもないし、ましてや会長から直接お声をかけてもらうことなんて…」 そういうもの? ヤクザが縦社会だということは聞いたことがあるけど、浜崎のこれは、もう火宮が尊敬する人間というより、信奉している神様化してはいないか。 「うーん…」 「まぁ、オレと伏野さんじゃ、立場が全然違うっすから、ご理解いただけないのもわかりますけど」 「うん…」 確かに、たまにいい声だなとうっとりすることはあるけれど、しょっ中会話する中で、いちいち感激してたら話にならない。 「くふふ。『翼がか?』…『すぐに呼び出してここに来るように言え』…『迎えをやって連れて来させろ』…どうっすか?もう、一字一句忘れませんよー。本当、感激っす…」 は? って、待て待て待て。 「は、浜崎さん?…それ、なんか火宮さん、怒ってません?」 何を呑気に感激しているんだ、この人。 「そうっすか?低くて重みのある感じで。それがまたズシンときて素敵っていうか」 「………」 駄目だこれは。 「はぁっ。やっぱり、電話に出なかったのがマズかったかなぁ。4回も無視したみたいになってたし…」 機嫌を損ねたか? 「はぁぁっ…」 これはまたどんな意地悪をされるか、考えただけで溜息も漏れる。 「まぁでも会社じゃ、変なことはしないか」 隣で、録音しておけばよかった、とか、もうむしろストーカーと呼べそうな怖い発言をしている浜崎を見ながら、俺はつい溜息と苦笑を漏らしていた。

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