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第115話

無言の車内の空気が重い。 少しでも気を抜けば、火宮の纏う不機嫌オーラに押し潰されてしまいそうだ。 運転手も、火宮が放つ苛立ちを気にしているのか、時折ハンドルがブレるのがわかる。 俺は、チラリと隣の火宮を横目で見て、ギュッと膝の上で拳を握り締めた。 話しかけられない…。 一体何をそこまで苛立たせてしまったのだろうか。 分からないから、下手に口をきくことができない。 どこでもいいから早く着いて…。 この密閉空間から一刻も早く逃れたくて、俺は目に映る車窓の景色をジッと睨みつけた。 そうしてどのくらい車に揺られていたか。 ふと軽い抵抗を感じて身体が少し前のめりになった。 停車したことが分かり、そっと窓の外の景色を窺おうとしたら、伸びて来た火宮の手に腕が捕まった。 「降りろ。行くぞ」 言うが早いか、すでに掴まえた腕を引き、俺を引き摺る勢いで車から出て行く。 後部ドアに回り込んできた運転手がドアを開けるより早く、自分で勝手に降車した火宮に、運転手がオロオロと慌てていた。 「あっ、おっ、お疲れ様でしたっ」 スタスタと目の前のマンションに入っていく火宮を、運転手の深いお辞儀が見送る。 フラフラと火宮に連れて行かれながら、俺は労いの言葉1つ漏らさず、視線すらその部下に向けない火宮に、何だか俺の方が申し訳ない気持ちになっていた。 「ふん。そうやって誰彼構わず懐いて」 「え…?」 やたらと低い、不機嫌な声が聞こえた気がした。 けれど俺の意識は、辿り着いていたエレベーターホールで、火宮が慣れた仕草でボタン横の指紋認証機に指を入れるのを見て、そちらに奪われてしまった。 モヤモヤとした感情が、またぶわっと湧き上がる。 「っ…」 俺が自由に使うことのできないエレベーター…。 憎々しげにその機械を睨んでいたんだろう。 火宮の怪訝な視線を感じた。 「おまえは…」 ふと、火宮が何か言いかけたところで、タイミング悪くエレベーターの扉が開いてしまった。 おかげで口を結んでしまった火宮が何を言いかけたのかわからないままになる。 「っ…」 気まずい雰囲気のまま、乗り込んだエレベーターは火宮の部屋があるフロアに辿り着き、これまた静脈認証をクリアしてくれた火宮に引き摺られ、室内に連れ込まれた。 「っ、やっ…」 リビングを横切り、寝室に連れて行かれたと思ったら、乱暴な仕草でベッドの上に放られた。 ギシ、と乗り上げてきた火宮が、ギロリと鋭い視線を向けてくる。 「真鍋と何を話していた」 「え…?」 「廊下で抱き合って、何をしていたかと聞いている」 地を這うような低い声。 皮肉げに吊り上がった唇が怖い。 「翼?」 「っ、俺は…真鍋さんと抱き合ってなんか…」 ただ勝手に俺がしがみついていただけで。 「そうだな。もしも真鍋の腕が翼に回っていたら、今頃あいつに両腕はない」 「なっ…」 「だが、おまえは、真鍋に縋り付いていた」 スゥッと細められた目が俺を見る。 「っ、あれは…」 「言い訳があるのなら聞いてやろうか?俺の元を飛び出して、別の男の胸で泣いていた、弁解ができるのならな」 「っ…」 そんな言い方って…。 まるっきり責めるように吐き捨てられた火宮の言葉。 聞いてやると言いながら、その気は微塵も感じない。 「クッ、あるわけないよな?翼、おまえがしたのは、浮気、だ」 「っ、なっ、違っ…そんなんじゃ…」 一体何を言い出す。 「おまえは、俺以外の男の胸に縋り付き、俺以外の男の胸を借りて泣いた。俺の話はまともに聞かずに飛び出しておいて、真鍋のことは頼って身を預けようとした」 「っ…それは」 「恋人にそんな行動を取られて、面白いわけがないとは思わないか?」 恋人…。 ふと、言葉の中のその単語が心に引っかかった。 火宮は簡単にその単語を口にするけれど…。 「本当に、恋人だと思ってます…?」 気づいたときにはもう、小さな呟きは口からこぼれた後で。 「なんだと?」 「っ…だって…。だって!俺を浮気だなんだと責める前にっ…俺はちゃんと、火宮さんの恋人なんですかっ?」 あーぁ、言っちゃった。 真鍋はちゃんと向き合え、って言っていたけど。 だけど、こうしてぶつかってみても、きっと無駄なんだろうな、とどこかで思う。 火宮の口から出る答えには、何の期待も湧かない。 その口元を見つめる先で、ゆっくりと言葉が形作られる。 「俺はそう思っている。翼は俺の恋人で、誰より大切な人間だ」 サラリと言われた言葉にも、冷めた笑いしか浮かばなかった。 「よく言う…」 大切な人間?冗談でしょ。 思わずハッと乾いた笑いが漏れた。 全く対等になんか見ていないくせに。 俺のこと、意志がある1人の人間だとは思っていないくせに。 火宮にとって俺は、ただその手の中に囲い込み、思い気ままに愛でるだけの人形だ…。 「何が不満だ」 「っ…」 何もかも。 だけど、それを言う気力は、俺にはもう残っていなかった。 「はぁっ。エレベーターの指紋登録をさせない件か?」 それも。 思ったが、もう話すのも面倒で、黙って頷く。 「それなら、おまえが外出したいと思うときは、極力俺が。それが無理なら必ず誰かガードを寄越して、おまえに同行するつもりでいる。だからおまえの登録は必要ないと言った。供をする者が操作できるからな」 「え…」 待って。それって。え? 淡々と話し始めた火宮の言葉が、激しく俺を動揺させた。 「俺は何も、おまえの外出自体を禁止したいんじゃない。制限付きで悪いとは思うが、俺の恋人をやるというのなら、そのくらいの覚悟は持って欲しい。今、揉めているとかそういったことはないが、この世界、どこで誰が何を企んでいるか分かったものじゃない」 「っ…」 「ほんの少しでも、おまえに危険が及ぶようなことを、俺は避けたい。おまえが何より大切だからだ。だから、外出したいと思ったときは、俺か、真鍋でもいい。一報連絡入れろと言っている。自分1人で勝手に出掛けることは許さないと、きつい言い方をしたのは悪かった。これはお願いだ。自分1人で勝手に外出しないで欲しい」 この人は…。 社長で会長で、とても偉い人なのに。 自分に非があると思えばそれをきちんと認め、潔く頭を下げる。 「っ、俺…」 俺は、その真摯で誠実に俺に接してくれる人に何をした。 「バイトの件も。頭ごなしに拒否して悪かったが…俺はおまえのことを思って言ったつもりだった」 「っ、俺の、こと…?」 「あぁ。おまえはこれまで、それこそ死ぬほど、金の苦労はしてきただろう?まだ16ぽっちで」 「っ、それは…」 「ごく一般的な16歳はな、まだまだ親に庇護されて、もっと気楽に、金は親から湧いてくるものだと思って過ごしている」 それはきっと極端な話だろうけど、間違ってもいないだろう。 「俺はおまえに、それを保証したかった。まだたった16だぞ?生活費や食費の心配なんかさせずに、むしろ小遣いくれ、と言うくらいの、ごく普通の生活をさせてやりたいと思った。甘えて欲しいと思った。だって恋人だろう?」 緩く弧を描いた火宮の目には、優しく柔らかい光があった。 愛おしい、愛おしいと、言葉よりも語る甘い甘い光。 「っ…俺、は…」 その火宮の正当な理由と優しさからの言葉を聞くこともせず、向き合わずに、何をした。 「俺…」 スゥッと伝った涙がパタリとシーツに染みをつけた。

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