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第134話

翌朝は、どうしても頭が重くて、火宮が出かける時間には起き上がれなかった。 ふわりと髪に温もりが触れ、スッと気配が消えていく。 見送りを強要することもなく、俺を無理に起こすこともなく、静かに黙って仕事に出ていく火宮に、優しさと愛情を感じる。 っ…好き。 大好き。 ぎゅうっと抱きしめた枕から、ふわりと火宮の匂いがする。 「っ…信じなくてどうする」 じわっと滲んだ涙を枕に押し付け、スンスンと鼻を鳴らす。 火宮の匂いが肺いっぱいを満たしてくれて、幸せだなぁと思う反面、ものすごく怖くもなる。 「起きよ…」 グズグズしていたらこのまま燻りそうな気がして、俺はモヤモヤとした気分を払拭するように、ガバッと起き上がった。 それでも結局、いまいちスッキリしない気分のまま、ダラダラと朝食を作り、ぼんやりしながらも何とか溜まっていた課題を片付けた。 そうこうしているうちに、午後。 久しぶりに真鍋がやって来た。 「翼さん…これは」 リビングのテーブルの上に広げられた教科書とノートを見下ろして、真鍋が苦い顔をしていた。 「え?」 指定範囲はきちんとやり終えたはずだし、分からないところも特になかった。 真鍋が何を難しい顔をしているのか分からなくて、俺はキョトンと首を傾げる。 「何ですか?」 「何ですか、ではないでしょう?」 トンッ、と俺が問題を解いてあるノートを指で叩いて、スッと目を細める真鍋の表情が冷たい。 「え?え?」 なんか機嫌悪い? 冷気が漂ってきそうな真鍋の様子に怯んで、ビクビクと身が竦んでしまう。 「あの…」 「はぁっ。これは、わざとでも反抗でもないということですね?」 だから何が…。 「だとしたら、相当弛んでおられるか、よほどうわの空でいい加減に取り組まれたか」 「えっ?」 「これも、こちらも。計算ミスです。これは誤字、ここは脱字。こちらはスペルミス」 次から次へと赤ペンでチェックを入れまくってくれた真鍋が、最後にトンッ、とノートをペン先で突いた。 「嘘…。うわ」 赤が入ったところを慌てて見直せば、確かに真鍋の言う通り。 これでもかというほどのケアレスミスの嵐だった。 「翼さん?」 「っ…ごめん、なさい…ちゃんと出来てる、つもりでした…」 怒られるのかな…。 思わず上目遣いで真鍋を窺ってしまったら、クールな美貌は困ったような苦笑を浮かべていた。 「テストではありませんし、ミスに目を瞑れば、全問理解は出来ているようです」 「っ、はい…」 分からなくて間違えているんじゃなく、本当に全部単純な書き間違い。 まぁだから余計に悪いと言えばそうだけど…。 「本来なら、理解出来ている問題をこうも間違えるその弛みをお咎めするところですが…」 「っ、罰は、嫌…」 確かに不注意での間違いだらけで、叱られるのは仕方がないのかもしれないけど、それはやっぱり嫌で、目に涙が盛り上がる。 「そうですね。このような解答になった理由が、ありますね?」 「っ…それは」 「会長が、昨夜から翼さんのご様子がおかしいとおっしゃられていました。浜崎から報告も上がっております」 あぁこの人は、俺が何に惑っているのか、気づいてる。 「さて、また勝手な思い込みで暴走なされる前に、さっさと吐き出して下さい」 「へっ?」 スッ、と俺に向いた視線は、それはそれは盛大に面倒くさそうな、呆れ果てたものだった。 「っ…」 「あなた方がこじれますと、私に多大な影響と甚大な被害が出ますので」 うわー、完全に厄介事を見る目だよ。 「ほら、さっさと解決しますよ」 「っ、さっさとって…」 「何を悩んで、会長を拒絶して、ぐだぐだと上の空で課題をこなしていたのです」 ほら、と急かしてくる真鍋の言葉に引っ張られ、俺の口は言葉を紡いだ。 「昨日…女といた」 「仕事ですね。取引先の相手社長とご移動の際にお見かけしたのでしょう?あちらは夏川社長。ちなみにご既婚です」 「っ!」 俺の小さな呟きをバッサリと切って捨て、真鍋は「次」と、俺の言葉を促してくる。 「仕事…相手にも、あんな風に…エスコートとか、優しく、して…」 「ご嫉妬なされたと」 「だってっ、なんか、やだった…」 「そうですね。面白いものではないのは分かります。ですが、あくまでビジネスはビジネス。それ以上の何もありません」 きっぱり。 それは頭では分かっているけど…。 「本当に?」 「ふっ、確かに、どこにでも勘違いなされる馬鹿はおりますが」 「え…」 「ですが社長がそのような相手の下心を見抜けないとでもお思いで?ご安心下さい。そのような気を持つ相手に、社長は恐ろしいほど辛辣です。ビジネスに色恋を挟んでくるような相手には、それなりの対応ができる大人ですので」 俺が案じるようなことは何もないと…。 「あんな綺麗な人に、もし迫られても?」 「揺るがないでしょうね」 「一緒にいて、見劣りなんかしなくって、並んで立つに相応しくて、きっと周りも、俺なんかよりずっと…」 お似合いだって。恋人同士なんだって。 誰もが認めて、羨んで、祝福してくれるような相手でも…? 「なるほど。あなたが1番こじれているのはそこですか」 「え…?」 「まったく、何故そんなに自信がないのです」 はぁっ、と真鍋が呆れている。 「だって…」 「いいですか、翼さん。あなたは、あの火宮刃に選ばれた人間です」 だからそれが信じられないんだって…。 「確かに会長の周りには、それなりの容姿や地位、権力や経済力を持った人間が多くいます。会長の隣に並ぶのに遜色のない人間が多数」 「っ、やっぱり、だから…」 「確かにあなたには、身寄りもない、財産もない、女でもない、まだ社会的地位すらない。ないものだらけです」 「っ…」 改めて言われなくたって分かってる。 俺がただの貧乏な子どもだってことくらい。 「ですが、翼さん」 「っ、な、に…?」 「会長は、そのあなたがいいと、おっしゃられた」 だから、それは…。 「あなたは、そんな何人もの人間が持つ見かけだけの様々なものよりずっと、大きくて重いものを、手にしています」 え?な、に、それ…? 「お分かりになりませんか?」 「そ、んな、の…」 俺にあるか? 「ない」 「はぁっ。これではあまりに会長が不憫です」 何なんだ。 「火宮刃の心」 っ!? 「あなたが手にしているのは、あの火宮刃の愛ですよ?」 「っ、そ、れは…」 「お疑いですか?」 「っ…」 ブンブンと左右に振った首が千切れそうだった。 「ならば悩む必要は何1つない」 「っ、あ…」 そう、だ…。 火宮の愛を、ただその気持ちを真っ直ぐに信じていれば、俺が不安になるようなことは何も…。 「周囲の評価が大事ですか?周りからどう見られるかの方が、会長とあなた自身の想いよりも?」 「違っ…」 「ならば揺らがないことです。あなたはただ、自分を信じて、会長を信じていればいいだけです」 そ、っか…。 俺は、俺と、火宮さんを信じてる。 「何も不安になることはない」 「は、い…」 「それにあなた…何も持たないとはいいますが、私の好みではないにしろ、客観的に見てその容姿はかなり…」 え?なにこの人。 まさか真鍋さんが俺を褒めた? 唖然として目を見開いてしまった目の前で、真鍋がハッとしたように表情を強張らせ、すぐに無表情の能面を被ってしまったのが見えた。 「と、とにかく、あなたは1人であれこれと思い悩む前に、思っていることをストレートにとりあえず会長に全てぶつけなさい」 「う…」 「こういったことは、本来会長から直接聞いた方がよいのですよ」 だから、言えたらそもそも悩んでな…。 「まぁ、素直に言えないからこじれるわけですが」 「あは…」 分かっていらっしゃる。 「それでも、もう少しご自身と会長を信用なさってください。それが1番平和で、1番手っ取り早い解決の方法です」 「はい…」 なんかもう、素直に頷くしか出来なかった。 だって冷たい、冷たいと思っている真鍋が本当は、すごく面倒見がよくて優しいんだって分かってしまったから。 「さて。これで私の業務も円滑に進むというものです」 『ぷっ、またそうやって嘯いて悪ぶって…』 知ってますよ?あなたが俺たちのために考え、行動してくれていることくらい。 「何か?」 「いーえ、別に?」 ニヤニヤと真鍋を眺めてしまった。 「まぁ、今夜はどうぞお覚悟なさっておいて下さい」 「へっ?」 「本日のこちら、ご報告させていただいておきますので」 「え…」 トンッと指先が叩いたのは、赤がびっしり入った勉強のノートで。 緩やかに頬を持ち上げた真鍋の、笑っていたのは口元だけ。 まったく笑っていない目が、冷たく俺を射抜いている。 「それから次回までの課題ですが、こんなものでしょう」 淡々と事務的に付箋を貼り始めた真鍋の手元は…。 「多っ!」 目眩がしそうな広範囲。大量の付箋。 「頑張って下さい。では私はこれで」 ニコリと微笑んだ真鍋の目だけが、やっぱりまったく笑っていなくて。 「前言撤回っ!優しくない!意地悪!超ド級のどSーッ!」 「お褒めに預かり光栄です」 「いやいやいやいや、耳鼻科に行って下さい」 どこをどうしたら褒め言葉に聞こえる。 「聴力に不便も問題も感じておりません。むしろ耳はよい方だと自覚しております」 「………」 いや問題だらけ…って、まさか。 「さっきの、聞こえてました?」 「さて?何のことでしょうか」 「っーー!」 この人は…。 「何でもないですっ」 「そうですか。では私はこれで。失礼致します」 どんなときにも変わらない綺麗なお辞儀。 完璧で優雅で、それでいて堂々としていて。 「あー、敵わない。敵わない。地獄耳。どS…」 真鍋が消えていったドアに向かって文句を1つ。 「だけど…やっぱり、ありがとう…」 たとえ真鍋の思惑がどこにあっても、やっぱり火宮とのことで包み隠さず話せるのも相談できるのも頼れる存在なのも確かで。 「俺は恵まれてるなぁ…」 金も、両親も、平凡な人生も失ったけど。 代わりに大事な人と、大事にしてくれる人と、大切な場所を得た。 「あなたの隣でこの先もずっと…」 生きていきたい。 たった1つの、とってもシンプルな俺の願い。 「っ、ん…」 きゅっと掴んだ胸元で、トクンと優しい鼓動が響いた。 ※ 白夜様が火宮と翼のイラストを描いて下さいました! とても素敵です

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