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第196話

翌日の1日は長かった。 今日で終わる人生か。 最期にしておきたいことは何だろう。 つらつらとそんなことばかりを考えて、結局行き着く先には必ず火宮がいた。 「っ…」 もう1度あなたとキスがしたい。 もう1度あなたの熱を感じたい。 縛ってもいいよ。意地悪してもいい。 火宮のその手で、その目で。 思いのままに抱かれたい。 一緒にお出かけ、もっとしたかったな。 些細な話に笑い合い、うっかり滑った口に喧嘩して。 あぁ、仕事をしているあなたの姿、もう1度この目で見ておきたいな。 「あはは。こんなに、こんなに全部が火宮さんだ…」 くしゃりと掴んだ前髪に、つられて引っ張られた頭皮が痛んだ。 「本当はまだまだもっとずっとあなたといたい」 ツゥーッと頬を滑った涙は未練の象徴。 「だけど必ず一緒にいられなくなる日はやってくる」 ならば今。 「やりたいことも、して欲しいことも、まだまだたくさんあるけれど…」 お酒の味、教えてもらう約束は果たせないね。 医者になる、なんて宣言したけど、それももう叶えられないや。 「だけど、だけど俺は…」 その全てと引き換えに、俺は自分のエゴを選ぶ。 最期にあなたの目の前で、あなたのその手で逝けるなら。 「幸せ…だよね?」 あれ? なんか俺、間違ったかな…? 捨てられる前に消えてやれ。 今を、永遠にするにはそれしかない。 その考えに間違いはないと思うのに。 「な、んだ、ろ…」 それで幸せなはずなのに。 じくりと湧き立つこの違和感は何。 「失礼します。翼さん。お迎えに上がりました」 「っ…」 不意に、クールで無表情、淡々と事務的に言葉を紡ぐだけの真鍋が現れた。 無言の車内。 重苦しい空気は、真鍋が今日の予定を火宮から聞かされているせいか。 どこへ連れて行かれるんだろう…。 まぁどこにしたって、きっと人気のない、どこかひっそりと人1人を消せるようなところだろう。 ヤクザなこの人たちには、きっとそんな場所いくらでも用意があるに違いない。 「俺の死に場所か…」 望めるならば、火宮と出会ったあのビルがよかったな。 あそこから始まって、あそこで終わる…。 「っ?!」 また、だ。 つらつらと浮かぶ思考の中に、ふと湧き上がる小さな違和感。 じくりと震える、この気持ちは何だろう。 「翼さん、着きました。このまま外を見ていて下さい」 え? キッと止まった車の中から、店が立ち並ぶ繁華街の歩道が見える。 堂々と路上駐車されたここは、多分俺の死に場所じゃない。 「あ、の…真鍋さん?」 戸惑いながら真鍋を窺っても、無言のまま何の答えも返らない。 仕方なくぼんやりと窓の外に目を向けた俺は、ふと、一軒のバーらしき店から、ゆっくりと美貌の男が出てきたのを見つけた。 「え…火宮、さ、ん…?」 夜の暗さの中にあってなお、一層色濃い闇を纏う男。 俺が見間違えるはずもない、火宮刃その人だ。 「っ…隣は、廣瀬さん…?」 なんで。 ただ呆然とその一言だけが頭をぐるぐると回る。 火宮の腕にしなだれかかり、媚びた笑顔を向ける廣瀬が見える。 振り払うでも鬱陶しがるでもなく、それを受け入れ、許している火宮がいる。 何かを一生懸命話しかけている廣瀬に、無表情ながらも相槌を打っているらしい火宮の顔が上下している。 2人が、並んで歩きながら、ゆっくりと路上の方へ近づいてくる。 「っ!嫌っ!」 その2人が並ぶ姿を見たくなくて、俺は窓の外から目を逸らし、思い切り下を向いた。 「嫌っ…」 こういうのを見たくなかったから死を選ぼうと思ったのに。 この仕打ちは何なのか。 真鍋の意図が分からなくて、俺はギリッと奥歯を軋ませた。 「見なさい」 「っ…」 凛と張り詰めた真鍋の声だった。 「顔を上げて、窓の外を見ていなさい、翼さん」 「っ、いや…」 どうしてそんな残酷なことを言うのか。 ただの意地悪では済まされない。 「あなたは、会長に殺せと言ったそうですね」 「っ…言いましたよ」 それが何。 「それはつまり、死のお覚悟が決まっているということですね?」 「っ、はい」 あぁ決まってる。 決まってるから願い出た。 「会長のお手を放し、会長を1人お残しになる覚悟が」 「え…」 真鍋の言葉に、ふらりと目が揺れてしまったのは隠せなかった。 「あなたが選んだものは、そういうことなのですよ」 「っ…」 「あなたは会長に想われたまま、時を止めて完結なさる。幸せなままで。苦しみや辛さを知ることもなく」 「っ、ん…」 そうだ。 「けれども会長の時は続いていきます。あなたを失った後も。そこでまた誰かと出会い、新たなお相手と時を過ごしていくかもしれません」 あのように、と示されるのは、窓の外に見える火宮と廣瀬の並ぶ姿。 「あなたはそのことを考えましたか?」 「っ…」 考えて、ない…。 グッと唇を噛んだ俺を真鍋はどう捉えたのだろう。 「あなたはあなたが消えた後、1人になられた会長が、誰とどう時を繋いでいっても構わない、ということですね?」 「っ…そ、れは…」 だって、死んだ後のことなんだからどうだっていい。 だってどうせ俺には、それは分からないんだから。 「他の誰かを選ぶ会長を見たくないから死んでしまいたい。妻を娶る会長の側にいたくないから殺してくれ。そういうあなたが、無条件降伏で、別の誰かに会長を譲る、ということが、あなたの死の意味なのですよ」 「っ…そ、れは…」 「会長を1人お残しになるということは、あなたは誰とも戦うことなく、黙って会長を差し出すということです」 ピシリと強い、真鍋の口調だった。 「それでよろしいのですね?」 「っ…俺、は…」 「そのお覚悟がおありで死をお選びになられたのですね」 「っ…」 ぐっと言葉に詰まった俺は、悔しいけれど気づいてしまった。 「あの光景を見ても、動揺なさいませんね?」 「っ…く…」 「あれは、あなたの亡き後の、会長の姿でもあります」 っ…意地悪だ。 この人はとてもとても残酷だ。 「どうしてお泣きになられるのです?」 「っ…ふ、っ…ぅぇっ…」 「あなたの決めたことでしょう」 ふるふると、無意識に左右に触れた頭は、何の意味からきた動きなのか。 「会長が自ら死を望んだあなたを、いつまでも心に遺してくれると思うな」 「っ!」 「会長の手に掛かって死にゆくことで、会長の心を永遠に繋ぎとめられるなどとは、決して思うな!」 「っ…」 「おまえがしようとしていることは、傲慢で残酷なただの我儘だ」 俺は…。 「卑怯で卑劣な手段を選ぶ、おまえを私は絶対に許さない」 激昂。 この真鍋の怒りに震えた声を初めて聞いた。 「っ…」 俺は…。 涙がピタリと引っ込んだ目に、何台か前の方に停車した黒塗りの高級車に乗り込んでいく火宮と廣瀬の姿が見えた。

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