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第197話
「っ、俺…」
ギュッと握り締めた拳の爪が、手のひらにギリギリと食い込んだ。
「俺っ…いや、だ…」
「………」
「追って!追って下さいっ…」
ガバッと縋り付いた運転席のシートを、後ろからガクガクと揺さぶる。
運転手の及川が、困ったようにチラリと真鍋に視線を向けた。
「お願いしますっ、真鍋さんっ」
「………」
「俺っ、俺、嫌だ。たとえ俺が知ることはなくても、分からなくなった死後の話でもっ、他の誰かを愛する火宮さんを、残して行くのはやっぱり嫌だっ」
ドンッ、ドンッとシートを叩き、必死で発車を乞い願う。
「俺はズルい。俺は卑怯だ。どこかで少し思ってた。最期に火宮さんの手に掛かって死ぬことで、俺の中で火宮さんは永遠になる」
「………」
「同じように火宮さんが俺をその手に掛けることで、火宮さんの中にも、俺が一生、消えない跡となって遺るだろうって…。無意識にどこかで思ってた。だから火宮さんが俺の死後、誰かと新しい道を歩くことなんて考えなかったっ…」
俺は、俺は…。
「誰とも戦いたくないから死に逃げて…そのくせ俺は、1番卑怯な手段で、火宮さんの全てを俺に繋ぎとめようとした…。その手で殺させるという、誰にも太刀打ちできない最低な手段で、火宮さんの一生を手に入れようとした…」
ぶわっと浮かんだ涙が、後から後から溢れてきた。
「翼さん」
「俺はっ…聖さんのことを知っていたのにっ。大切な人を亡くした後の、火宮さんの、抜け出せない昏い闇を知っていたのにっ…」
何てことを…。
「謝らなくちゃ!撤回しなくちゃ!」
「翼さん…」
「戦わなくちゃ、伝えなくちゃ!」
お願い、お願いと車を走らせることを急かす俺を、真鍋の細められた目が見てきていた。
「火宮さんを誰にも渡したくないっ。他の誰かと結婚なんてしないで欲しいっ。姐さんなんて迎えないで。俺は、俺はそれを、殺してもらうなんていう手段じゃなくてっ、口で、心で、全力で、火宮さんに伝えなければならなかったっ…」
ずっと感じていた違和感は、それだ。
俺は、戦いもせずに逃げ出した。
それが1番幸せだと自分に思い込ませて。
それが幸せか?
そんなはずがあるわけない。
「真鍋さんっ…お願いっ」
やってみる前から諦めて、自分が辛いのが嫌だから、さっさと試合放棄してあの世へ逃亡か。
なんて無様で、なんと卑劣な真似を選んだ。
「真鍋さんっ…ごめんなさいっ」
「はぁっ…」
「俺が間違えた。俺はっ…」
クイッと1つ、真鍋が運転手の及川に、顎をしゃくった。
スゥッと車がスマートに走り出す。
ハッと息を飲んだ俺は、助手席に身を沈めた真鍋をバックミラー越しに見た。
「謝る相手が違います」
「っ…」
それって…。
「会長はこれからPホテルへ向かわれるでしょう」
「っ、俺も、行く…」
「お覚悟は」
「決まってる」
キュッと奥歯に力を入れて真っ直ぐ真鍋を見返した俺に、真鍋の口元が微かにふわりと笑みを浮かべた。
「それでこそ翼さんです」
小さく囁かれた真鍋の声があまりに優しくて、鼻がツンと痛くなった。
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