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第198話
✳︎暴力、流血表現があります。
苦手な方はご注意下さい。
どんな怒りも、どんな罵りも、どんな非難も受け入れる覚悟で、ゆっくりと押し開いたホテルの客室の扉。
ラグジュアリーホテルのスイートルームだ。
開けた途端に寝室ということはないだろうけど、廣瀬と2人。それなりの覚悟をして踏み込んだ、そこに。
「え…」
全ての覚悟が一瞬で吹き飛ぶような、何もかもを承知していたと言わんばかりの、ニヤリとした、したり顔の火宮が見えた。
「え…」
馬鹿みたいな一音しか漏らせない俺は、とにかくこの状況を考える。
リビングルームに腕組みをして立っている火宮と、床に跪いている廣瀬。
2人きりかと思った室内には、入り口付近に左右に分かれて立っている護衛が2人と、何故か廣瀬の左右に、廣瀬の肩と腕を押さえつけて立っているブラックスーツの男が2人いた。
当然俺の後ろには、このセキュリティ厳重なホテルの客室まで進入させてくれた真鍋がいて…。
「あの…」
どうしても理解が出来ずに困った俺は、とにかく後ろの真鍋を振り返ろうとした。
「翼」
「っ!」
鋭い呼び声に、ビクリと動きが止まる。
「頼る相手が違う」
「っ…」
「向き合う相手も違う」
「ひ、みや、さ…」
真鍋を振り返ろうとしていた身体を火宮の方に戻し、俺はその目を真っ直ぐ見返した。
「来い、翼」
スッ、と広げられた両腕を見た瞬間。
その意味も理由も何も考えることが出来ずに、反射的に床を蹴っていた。
「火宮さんっ!」
バッと胸に飛び込んでいった身体を、ふらつきもせずに火宮ががっしりと抱きとめてくれる。
ぎゅう、としがみついた身体に、ふわりと火宮の腕が回る。
「な、んで…?」
呆然とした呟きが床の方から聞こえた。
「ククッ、俺が選ぶのは、こいつただ1人だ」
「どうしてですかっ!」
「ふん」
ぎゅっ、と火宮の腕の力が強まり、触れた場所からその内心が伝わってくる。
あ…。疎んでる…。苛立ってる。
じわりと感じるその感情を、床で喚くその人は分からないのか。
「どう見たって俺の方が可愛い!テクだってある!会長を絶対に満足させられる。本妻になりたいなんて贅沢も言わないし、愛人としてちゃんとわきまえて、会長の妨げになるような我儘は絶対に言わな…」
「っ…」
こ、わっ…。
ガァンッ、といきなり近くの椅子を蹴り飛ばした火宮に、思わず飛び上がってしまった。
「黙れ」
「ッ…火宮会長…」
「黙れというのが分からないか?」
ズゥン、と、一体どこから響いてくるかと思うような、低く重い火宮の声だった。
「真鍋」
「はい」
スッ、と俺から離れた火宮の手が、トンッと俺を後ろの真鍋へ押し返す。
よろりと足を引いた俺の側から、ゆっくりと廣瀬の方へと火宮が向かう。
「可愛いのは、翼が1番だ」
「か、いちょ、う…?」
「テク?はっ、そんな誰の手垢がついたか分からんものを、俺が喜ぶか」
「ッ…」
「俺好みに、俺色で、嫌がりながらも快楽に負け、恥ずかしがりながらも必死で俺に応える。そんな天然のテク以上の悦びなんて他にない」
なっ…。
何言ってるの、この人。
顔を真っ赤にしてるのが俺だけって…。
「火宮さんっ!」
こんな大勢の前で恥ずかしいこと言わないで。
「ククッ、ほら可愛い」
「ばっ…」
「なっ…」
唖然と言葉を失くした俺と、ムッと苛立ちを見せた廣瀬の声がそれぞれ途切れた。
「それで?愛人でいい、か」
「っ、そ、うですっ。俺にはちゃんと覚悟が…」
「黙れ」
「ッ…」
今日1番の火宮の冷ややかな声が響いた。
それを向けられているわけではない俺まで、ゾッと寒気で鳥肌が立った。
「それを覚悟などとは言わん。つまりは貴様は最初から、俺の名前と立場と金だけが目当てだ」
「ッ…そんなことはっ…」
「愛人になれるということは、その程度にしか、俺を見ていないということだ」
「ッ…」
鼻で笑う火宮の言葉が、じわりと心に沁みこんでくる。
「翼はな、愛人にされるくらいなら死ぬんだと」
「ッ、それは…」
「本妻にしろという脅しじゃない。翼は、たとえ俺がヤクザの頭じゃなくても、金が一銭もなかったとしても、そんなものにこだわっちゃいない」
あぁ。あぁ、なんでこの人はこんなにも俺を分かってくれていたのに。
「翼が求めるのは、ただ俺自身。丸裸の火宮刃という男の心、1つだけ。命をかけて、俺だけを欲してる」
「っ…」
「そんな翼に、貴様が敵うか。貴様が翼にまさっているところなど、何1つない!」
ダンッ、と足を踏み出した火宮が、ゆっくりと身を屈める。
鋭い視線と、苛烈なオーラが床で跪く廣瀬に向いて…。
「真鍋」
「はい」
え…?何?
「その貴様のような小物が、翼に何を吹き込んだ」
「ッ…」
「俺のイロと知って、余計なちょっかいをかけた罪は重い」
え…。
状況についていけない俺の前で、火宮の右手がすぅっと振り上がったのが見えた。
「失礼します」
「っ?!」
次の瞬間には、真鍋の手のひらがドアップで見えて…って、多分、真鍋の手で目隠しされていて。
バシンッ、とか、ドサッ、とか、ガタガタッ、とかの派手な物音が聞こえてきたと思ったら、ついでのように誰かの呻き声までもが上がった。
「な…」
何?
怖いんだけど…。
そっと持ち上げた手で、そっと真鍋の手を外そうとする。
後ろから頷いた気配が伝わってきて、俺が触れる前に真鍋の手は目の前から外れた。
「っ!」
何が起きたかは、一目瞭然だった。
床に座っていたはずの廣瀬は脇に吹っ飛び、その頬は赤黒く腫れ、鼻と口の端から血を垂らしている。
火宮の手の甲は微かに赤みを帯びていて、どんだけ全力で殴ったんだろう。
互いに右手、右頬ってことは、裏拳で引っ叩いたんだろうけれど…。
「痛、そ…」
俺の目が引きつけられたのは、火宮の赤くなった手だけだった。
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