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第199話

ヤクザな火宮が純粋な暴力を振るうところを初めて見た。 いや、真鍋の手に遮られ、その瞬間は正確には見てはいないのだけど。 「ひ、みや、さ…」 不思議と怖くはなかった。 それは俺に向いた暴力ではなかったせいでもあるだろうけど、それだけじゃない。 廣瀬は顔を酷く腫らせて、まだ床で呻いているし、血だって出ていてひどい有様なのに。 俺、最低かも…。嬉しい…。 火宮がこれでもかというほどはっきりと廣瀬を振ったことが。 廣瀬に向く火宮の気持ちが、純粋な嫌悪と怒りだけっていうのが。 「っ、俺…」 「連れて行け」 はっ、と頷いたブラックスーツの男たちが、廣瀬を引きずり立たせて引っ張っていく。 廣瀬の顔は涙と鼻血でぐちゃぐちゃになっていて、身体には力が入らないみたいでぐったりしている。 それを男たちは容赦なく、ズルズルと引きずるように連れて行く。 「会長、処遇は」 「風俗に沈めろ。まぁ船でもいいが…。あれでもバーじゃ、指名もアフターも取り放題だったんだ。売り専で使い物にならなくなるまで搾り取れ。少しは稼いでくれるだろう。その後はいつものルートで処分だ。2度と、俺と翼の前にツラを見せることがないようにな」 ゾワッとするような冷酷な声。 これがヤクザの火宮の姿か。 「分かりました。だ、そうだ」 真鍋の声に、男たちは黙って一礼して、廣瀬を連れて部屋を出て行った。 「おまえらももういい」 「「はい。失礼します」」 入り口の左右に立っていた護衛2人も、火宮の言葉で退室して行く。 後に残ったのは、ピリッとした空気を醸し出した火宮と、いつもの無表情の真鍋。 ゴクリと唾を飲み込んだ俺の3人だけになった。 「さてと…」 ゆっくりとこちらを振り向いた火宮の、感情の窺えない目が俺を見る。 いきなりの展開に流れされて、うっかりここへやって来た目的を忘れそうになっていたけど。 俺は。 「ひ、みや、さん…」 「翼」 「っ…俺っ、ごめんなさいっ」 ガバッと深く下げた頭は、膝につくほどの勢いになった。 「ごめんなさいっ…」 ギリッと噛み締めた奥歯が鳴り、ぎゅっと握り締めた拳が震える。 下げた頭の上で、火宮はどんな顔をしているのだろう。 俺はただひたすらに、深く、深く頭を下げた。 「翼…」 「っ、俺っ…」 「翼」 っ…。 スッ、と一歩前に踏み出してきた火宮の革靴の先が視界に入り、反射的にビクリと身体が震えた。 「翼」 「っ…は、い」 「顔を上げろ」 静かな命令口調に、本能的に従った俺は…。 「っ!」 何の感情も映さない火宮の目を見て固まった。 「っ…ぁ…」 意味をなさない吐息が漏れる。 まるで綺麗な人形だ。 ただ真っ直ぐに俺を見るその目は、一切の感情を持たない深い闇色で。 「っ、ぁ、俺…」 俺がさせている。 俺が、させた。 ヒュッと吸い込んだ息が、そのまま喉の奥に絡まって止まった。 「翼」 「っ…」 「翼、俺は、おまえの望みなら、何だって叶えてやる」 「っ!」 「おまえが望むことなら、何だってできる」 静かな静かな火宮の本気の言葉だった。 「っーー!」 じわり、と滲んだ涙を、俺は、歯を食いしばって堪えなければならなかった。 あぁ、そうだ。 その心を、信じなかったのは、俺。 誤ちを犯したのは、俺。 滲む涙を目から落とすのはずるい。 「っ、火宮、さん…」 「なんだ」 「俺、間違え、た…」 ぎゅう、と拳を握り締め、震える声を絞り出す。 「俺…」 っ…。 もうどうにも心がいっぱいいっぱいで、言葉を紡ぐことはできなかった。 高ぶった感情が、口を開けば涙となって溢れ出してしまう。 グッと唇を噛み締めて黙り込んでしまった俺に、火宮がそっと一歩近づいた。 「翼。叩くぞ」 ドクッ、と鼓動が跳ね上がり、身体がビクリと強張った。 「っ…」 けれども恐怖に震える内心とは裏腹に、俺の頭は素直に上下していた。 「手を後ろに組んで、足を軽く開け。歯を食いしばっていろ」 「っん…」 言われた通りにグッと唇を引き結び、固く目を閉じる。 「会長っ…」と焦りを浮かべた真鍋の声が聞こえた気がしたけれど、俺はこれからやってくるだろう痛みに身構えることが精一杯で、それが本当に聞こえた声なのかどうなのかが分からなかった。 ふと、ひゅっ、という空気の揺れを感じた。 「っ…」 パンッ、という肌を打つ乾いた音に続いて、頬がジンッと痺れるように熱くなった。 「っ…た」 ぐんっと左に持っていかれた顔を正面に戻しながら、反射的に持ち上げた手で、ひりっと痛むそこに触れる。 手のひらに僅かな熱が伝わり、叩かれた頬を実感して、俺はゆっくりと目を開けた。 「っ!」 ひ、みや、さん…? あまりに苦しい、火宮の表情だった。 ぎゅうぅっ、と胸が締め付けられるような、辛い、その顔が心に迫る。 「っ、俺っ…」 「言うなっ!」 「っ…」 「2度と言うなっ!」 あぁ…。 「2度と俺に殺せなどっ。口が裂けても言うなっ…」 っーー! 絞り出すような、呻くような火宮のその悲痛な声が、耳に、心に、強く強く焼きついた。

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