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第373話

「翼。飛んだか?おい、翼」 ペチペチと頬を叩かれて、俺は重たい瞼をのそりと開けた。 「ん…ッ」 ぼんやりと焦点の合った目が、目の前の枕とシーツを映し出し…。 「って、保健室ッ!」 やば、と慌てて起こそうとした身体はへにゃりと力が抜け、バタンと再びベッドの上に突っ伏してしまった。 「あぅ…」 「ククッ、わずかな間に何度イッたか。完全に腰砕けだな」 ニヤリ、と愉しげに笑っている火宮は、まったく悪びれていなくて。 「学校で、こんな…」 しかもまだ体育祭の途中なのに。バカ火宮。 「クッ、足りなかったか?」 「え?」 「バカ火宮、ね」 「えっ、俺言って…」 慌ててパッと口を押さえた俺に、向けられるのは火宮の妖しい笑みで。 「嫌!やだ。もっ、無理ですからっ」 これ以上お仕置きなんてことになったら、それこそ本当に壊れてしまう。 すでに起き上がれない身体を、ジタバタともがかせて、俺は必死で抵抗を示した。 「ククッ、まぁそう遠慮するな」 「っーー!してな…」 『だから、やめろって!リカ!』 『えー、でもほら、心配じゃん。様子聞くだけだから!』 っ?! 不意に廊下から響いてきたのは、2人分の足音と、豊峰とリカの声だ。 「っ、火宮さん」 やばい、どうしよう、と焦る俺は、まだ情事の後がバレバレの姿で。 ワタワタする俺に、火宮のニヤリとした笑みが向いた。 「鍵、開けてやろうか?」 「っ、駄目ですっ!」 もうこの人、本当、やだ。 意地悪な火宮に、じわりと涙が浮かんだところで、コンコン、とノックの音が響いた。 「っ…」 シィーッ、と人差し指を口に当てて訴える俺を、火宮はニヤニヤして見ている。 『つーちゃん?つ、ば、さ、くーん、いる?』 返事のない室内が不思議なのだろう。 コンコン、がバンバン、になりつつあるノックの音と、リカの声が響く。 『あれー?しかも鍵』 『だからっ、それは邪魔するな、ってことなんだって!翼にはあの方がついてるんだから、心配しなくても大丈夫だって!』 怒鳴り声に近い豊峰のフォローに、安堵と苦笑が浮かぶ。 「ククッ、今、俺のせいでむしろ大丈夫じゃない、と思っただろう?」 「ひゃ!」 反則! 耳元でそんな色っぽい声で囁いたら駄目だってば。 思わず悲鳴の上がった口を、ハッと押さえる。 『ん?今声した?やっぱ中にいるよね?』 『だから!それで返事しないってことは、会えないってことなんだって。ほら、あの方に怒られる前に、早く戻ろうぜ』 リカと豊峰の押し問答は丸聞こえで、どうなることか、と、ドキドキと緊張する。 『えー、その、あの方、ってやつと、間近で対面できるかもー、なんて下心もあったのになぁ』 っ?! 思わずヒュッ、と息を飲んだら、火宮がなんとも言えない顔をしていた。 『おまえな…』 『だぁって、なんかさっき、思い切り睨まれちゃったけどー、それもさ、つーちゃんラブ!からくる牽制だと思うと、もうたまんなくない?あんな最高男子、人様のものでも、鑑賞できるだけ眼福ってね!』 うわー、リカは本当、強かだな。 『おまえね、それ、ヤクザの頭だって知ってるよな?』 目ぇつけられて怖くねぇのか、と呟く豊峰の声が聞こえる。 『いやぁ、まぁヤクザは怖いよね』 あはは、と笑うリカに、ギクリとした。 火宮の手がそっと背中に触れる。 『ッ…ほら、だから』 『でもつーちゃんのカレシさんは、怖くないよね』 『は?』 『だってさ、つーちゃんが選んだ人だもん。その人がさ、つーちゃんの友達に、悪いことをする人なわけがないじゃん』 自信たっぷりに言い放つリカの声がする。 『そんなの、分かるわけ…』 『んー?分かる、のは、つーちゃんが、友達に本気で害をなすような人を選ぶわけがない、ってことかな』 『ッ、それは』 『私はさ、これでも何気に、つーちゃんのことは信頼しちゃってるからね』 ふふ、と得意げに笑うリカの声が聞こえた。 『つーちゃんはね、自分の大事なものを本気で壊しにかかるような人を、好きにはなんないよ』 にこりと笑うリカの顔が、見えなくても分かるような気がした。 っ、くそっ…。 じわっ、と滲んだ涙が、ボスッと顔を埋めた枕を濡らした。 「ククッ、この天然人たらしめ」 ポン、と頭に乗った火宮の、温かい手と穏やかな声に、きゅんと胸が小さく震える。 「仕方ない。おまえへの信頼に応えてくるか」 サラリと髪を撫でた火宮が、チュッと優しいキスを落とし、そっとベッドを下りていく。 火宮さん…? シャッ、とベッド周りのカーテンが引かれ、その向こうに火宮の姿が消えていく。 その後すぐに響いたのは、鍵の開けられた音と、豊峰とリカの声で。 もう、なんでこの人は…。 豊峰たちに答える火宮の声は、決して高圧的でも面倒くさそうでもなくて、むしろ丁寧で。 火宮がそんな人当たり良く対応したら、リカなんか絶対に目を輝かせて喜んでいるに違いないし。 そんなの、俺の方が妬ける…。 チリッと身を焦がした嫉妬が浅ましくて、俺はバサッと布団を被って、1人勝手に拗ねてやる。 だけどどうしてもほっこりしてくる心の名前は、悔しいけど、「嬉しい」ってやつだった。

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