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第1話

 気だるい午後の授業は途中から自習に変わり、少しずつ話し声が目立ち始めていた。  問題集と向き合っていた相崎(あいざき)(はじめ)もその手を止め、頬杖をつく。 「はぁ」  思わず漏れるため息は深く、この疲労感が顕著に現れている。  先ほどまでの集中力は完全に切れてしまっていた。  ペンを回してみたり、ノートの端に昨晩読んだマンガのキャラを描いてみたり。  集中力が続かない原因の一つは、この肌に纏い付くこの蒸し暑さ。乾いた暑さならまだいいが、このジメジメとした暑さには敵わない。  窓の締め切られた教室内には熱気が溜まりこんでいる。そのせいで頭はぼうっとして思考を停止してしまった。肝心のクーラーは故障しているのか、微力の風が時々感じられるばかりだ。おそらく室温は三十度近くまで上がっていることだろう。  統はシャツの襟元を仰ぎながら窓の方へ視線を向ける。  外は天気予報の通り、午後から雨が降り始めた。  町の向こうに広がる海が今日は遠く霞んで見える。  丘陵に建つこの学校からは町の景色がよく見え、晴れていれば湾の向こうに連なる山々も見えるが、この天気のせいで靄がかかっていた。  学校の袂には多くの民家と田んぼが広がり、少し先の駅前の通りを中心に商店が点在している。親がまだ若かった頃は、ここも活気に溢れていたらしいが、今ではほとんどの店がシャッターになってしまっている。カラオケや映画館なんてものはまず無く、娯楽が極端に少ない。  あるのは小さな商店と文具や雑貨や少量の本を置いた、何屋と呼べばいいのか分からない店。そして少し離れたところにスーパーとコンビニが二件。  大きな街まで遊びに行こうとすれば電車で二時間は掛かる。  ここは小さな田舎町だ。  耳を澄ますと、窓に当たる雨音が微かに聞こえた。その弱い雨の音はただでさえ暇で眠りそうになる統の眠気を誘発する。先生が居ないのをいいことに大きな欠伸をひとつ。  統は何とか眠気を堪えながら、しばらく外を眺めていたがそれにも飽きてきた。  先ほどから何度も時計を見るが時間は一向に進まない。  どうして楽しい時間はあっという間に過ぎるのに、退屈な時間はこんなに長く感じるのだろう。  ああ、眠い。退屈だ。  もういっそ寝ってしまって授業が終わるのを待つか。  統はまた大きく欠伸と伸びをした。  気持ちよく眠る体制を作る為、机に伏せて何気なく隣を見ると周りの騒ぎも気にしない様子で、問題集に目を落としている三ツ原(みつはら)秋夜(ときや)の姿が目に入った。  こんな環境でよく集中できるなあ。  統は感心する。  ひと月ほど前、彼は転校してきた。  それも東京からと彼は言っていた。「東京かぁ」と皆が思ったことだろう。ここは東京からはとても距離のある九州の端の小さな町だ。  こんな中途半端な時期にこんな田舎町に転校か……。  そこには何か理由があるんだろうと感じたが、あまり詮索するのもよくない。統は深くは考えるのは辞め、担任が連れてきた転校生に視線を向けた。  教室へ入って来た彼は俯きがちで、声も小さい。目にかかるほど伸びた前髪のせいか、その表情は暗かった。  休み時間、東京から来たと聞いたクラスの奴らは、好奇心に溢れた様子で彼の周りに集まっていた。そして、いろいろな話を聞き出そうと熱心に彼に話しかける。秋夜は困ったようにしていたが、ちゃんと皆んなの話に答えるようにしていた。  話はできる奴なのかな。  そう思ったのも束の間、ものの数日が経つと、彼は一人になった。  彼が転校してきてもうすぐひと月が経とうとしている。なのに彼はずっと一人だ。  彼は自分からクラスに溶け込もうとしない。  ならばこちら側から、と近寄っていっても、俯いて中々喋ろうともしないのでどうしようもない。  一人でいた方が気楽でいいのか、それとも人と接する事が苦手なのか。  彼には人と仲良くする気があるのかも、解らない。  最初の挨拶の時に、取っ付きにくそうな奴だな。と統は思った。それに、きっと難しい性格をしているのだろうと少し警戒をしていた。  そんな中、担任は統の所属している委員会に秋夜を入れた。  委員会は、一人一役必ずやらねばならないもので、各クラス一人か二人ずつ、三学年合わせて十人程度で構成された、縦割り班での活動になる。  確かに統の班は他の班と比べると、やや人数不足であったが、学校の花壇や鉢に水遣りをすのが仕事で、それらのほとんどを用務員さんがやってしまうので、そう人数は要らない。  実際、委員会の活動はあってないようなものだった。  よくよく話を訊くと、担任は「お前、割と直ぐ色んな奴と仲良くなれるだろう。今の様子じゃあいつ、クラスに溶け込めないだろうからさ。いつもでなくていいから、声掛けてやってよ」と話した。  統はそれはお節介になるのではないのだろうか。と心配をしつつ、やっぱりクラスから乖離してしまってはよくないだろう、と秋夜を気に掛けるようにした。  あまりにしつこく話をしても困るだろうと思い、委員会の集まりやペアを組む授業の時に少しずつ距離を詰めようとしているのだが、なかなか上手くはいっていない。  はて、と困っているところだ。  隣の席に座る彼は黙々と手を動かしている。見事な集中力に感心して見ていると、ふとその腕が止まり、秋夜はペンシルを落とした。  どうしたんだろうか、と統が思っていると、ペンを拾うかと思われたが、そのままふらっと椅子から落ちそうになった。  倒れる。  そう思った瞬間、統は反射的に腕を伸ばし彼を受け止めていた。 「おっと」  倒れ込んだ秋夜は、力が入らないようで、統の腕の中に収まっている。  意識はあるようだが、顔色は酷く悪い。  見るからに体調が悪いのは明らかで、統は早く保健室へ連れて行った方がいいと判断した。  既に秋夜の周りの生徒を中心に騒めき始めていて「大丈夫」「どうしたの」「なになに?」と言葉が飛び交うが、今はそれらの相手をする余裕はない。 「どう、歩けそう?」  統が尋ねると秋夜はふいと小さく首を横に振った。秋夜は完全に脱力し切っていて全ての体重を統に預ける。 「とりあえず、保健室に行こうか」  彼にそっと声を掛け、背中に乗るように秋夜を促す。  シャツから覗く腕はほっそりと白い。  負ぶった秋夜は見た目の通り、華奢で軽かった。明らかに平均体重を大幅に下回っているだろう軽さだ。支える腕に浮き出た骨の感覚がある。  体調が悪いのなら、誰かに声をかけるなり、保健室へ行くなりすればいいのにと思う。しかし、秋夜にはそれができなかった。やはり、どこか一線を置いているというか、遠慮しているというか……。  倒れた原因は恐らくこの暑さだけではないんだろうな。と統は予想立てる。  ざわめき立つ教室を後にし、廊下に出ると統の首筋を汗がつぅと流れた。ここもまた暑い。 *** 「こんにちは……」  ゆっくりとドアを開けると、保健室独特の匂いが漂ってきた。薬品や消毒液の匂い。  クーラーで室内は冷やされているが、中には誰も居ない。  統は秋夜をベッドに寝かせ、保健室から外に出て直ぐ横にある自販機に経口補水液を買いに出る。ポケットの中に乱雑に入れられた小銭は百五十円。  よかった、足りる。  学校に置かれた自販機は全ての飲み物が百二十円に設定されていて助かった。  倒れたのがあの暑さが原因だとすると、しっかりと水分を摂らせないと危ない。  統は外の暑さからまたクーラーの効いた涼しい部屋へ戻ってきた。  確か、ここのグラスは使ってよかった筈だったよな。  統は室内の棚を一通り見て回り、一番右端の棚に並んでいるグラスを手に取った。  ペットボトルからグラスに注ぎ入れ、秋夜に渡す。 「飲める?」 「うん」  秋夜はか細い声で答える。  彼の上体を起こし、グラスを手渡すと、受け取った腕は力が入らないからなのか、微かに震えた。  秋夜は二口ほど飲むと、すぐにベッドに横になり目を瞑る。  統は汗で貼りついた秋夜の前髪を軽く横に梳かし、額に濡らしたタオルを当てがった。  統は、ベッドと入り口を音を立てないように数回往復し、保険医が戻ってくるのを待ったが、それでもまだ戻って来ず、傍にあった椅子に腰掛け、秋夜を見詰めていた。  顔つきは幼いが、整った、綺麗な顔をしている。でもその顔にはしばらくの間眠れていなかったのか、目の下に大きな隈ができていた。  繊細な表情だ。  秋夜の顔をしっかり見たのはこれが初めてだった。  委員の仕事で一緒の時も、俯きがちな上、その長い前髪で顔を隠してしまっていて、ちゃんと顔を見たことはなかった。  秋夜はその眉を顰め、少し開かれた唇を震わせている。まだ顔は青白く、体調はかなり悪いのだろう。 「うう……」  時々、秋夜は悪夢を見ているようにうなされてる。  余りにも苦しそうに唸る秋夜が心配になってきて手を握ると、その手は冷え切っていた。  今度は冷房で体が冷えすぎてしまったのだろうか。  体を冷やすのもよくない。 「うーん」 こういうことに慣れていない統は唸った。  布団を掛けてしばらく様子を見ていると、秋夜の額にはじんわりと汗が滲んでいた。  統はその汗を拭おうと彼の額へそっと手を伸ばす。  ガラッ  あと数センチのところでドアの開く音がして、統は咄嗟に手を引っ込めた。  中に入ってきたのは女性の保険医だった。  統は椅子から降りて、保険医の元へ向かう。  先ほどから動悸が止まらない。  何か悪いことをしようとしていた訳でもないのにどきどきと痛いほどに心臓が高鳴る。  あれ、なんでだ。  心臓はずっとうるさく鳴り続けている。 「先生」 「どうしたの? 何かあった?」  統は深呼吸をし、保険医に現状を話し始めた。 「彼、体調悪いみたいで」  統はベッドの上で眠る秋夜を指す。 「あらあら」 「取りあえず、水飲ませて、ベッドに寝かせておきました。今は眠ってます」 「相崎くん、ありがとう」  もう統にできることは、これくらいだった。あとは保険医に任せていればもう大丈夫だろう。 「はい。じゃあ」  保険医と交代し、秋夜の眠るベッドを見詰めながら統は保健室をそっと後にした。

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