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第2話
外へ出ると降り続いていた雨はもう止んでいた。
辺りはしっとりと、雨の匂いに包まれている。
帰宅し、リビングでだらだらとテレビを見ていると、隣に住んでいる祖父が統を玄関に呼びつけた。
祖父は両手に大きな袋をぶら下げていて、その笑顔には統に何かをお願いしようという魂胆が見える。受け取った袋の中には沢山の野菜たち。
結局、祖父の頼みというのは、野菜のお裾分けを近くに住む大家さんに届けて欲しい、ということだった。
近くなんだから自分で持っていけばいいのに、と思いながらも、そんなことを言えば数十倍になって帰ってくることは目に見えているので、素直に言うことを聞く。
ビニール袋いっぱいに詰められたこれらの野菜は祖父が作ったものだ。祖父はそれ程大きくはないが、畑を持っていて、そこで、いろいろな作物を育てている。
いずれはその畑を統が継ぐかどうかの問題が統にもやってくるのだろう。
父は畑を継がなかった。そして大学の為、家を出た兄もどうやら継ぐ気はないらしいのだ。
祖父が一から作った畑だ。継ぎたい気持ちはもちろんある。問題は、果たして農業一本でやっていけるのか。難しいところだ。
近所の小学生達が水溜りで遊ぶ横を水がかからないよう通り抜け、家の裏に回った。
庭には沢山の花が植えられている。これらの花は随分前に統も一緒に植えるのを手伝ったものだ。花には興味が無かったが、自分が植えたものだからか、綺麗に花が咲いているところを見て嬉しく思った。
「よっと」
統は花の隙間を慎重に進む。
「こんにちは。ばあちゃーん」
いつもの様に、裏口から声を掛ける。
表から入るよりも、裏からの方が気付いてもらいやすいのだ。
あれ、おかしいな。
いつもはすぐに「はいはーい」と優しい返事が返ってくる。
しかし今日はなかなか返事が返ってこなかった。
「おうい……」
待っても待っても返事は返ってこない。
この時間だったら外出をしている可能性もある。
そう言えば最近、近所の体操教室に通ってるんだと話していたのを思い出した。
「ここに置いておくか」
袋を裏口の隅に置き、踵を返したところで中から微かに声が聞こえてきた。
「すみません」
聞こえてきたのは、若い男の声だった。この家に住んでいるのは大家さん一人の筈だ。
誰だろう。
統には検討付かなかった。
「祖母は今出かけていて……」
統は可能性は低くとも、最悪の想定をしながら待ち構える。
そうしていると、ガチャと鍵が開き、ゆっくりとドアが開いた。
「あ」
目が合い、互いに驚いた。
「えぇと……相崎、くん」
「秋夜」
中から現れたのは秋夜だった。
秋夜は困ったように目線を下に逸らす。
なぜ、秋夜がここにいるのだろうか。
予想外の登場に統は言葉が出なかった。
「あの……」
統が驚き固まっていると、秋夜は用件は何か、と問う視線を時折りこちらに送ってきた。そして目が合うとサッと逸らしてしまう。
「ああ、ごめん。体調は、もう大丈夫?」
「うん……さっきはどうも」
秋夜は小さく頭を下げた。
顔色はもうだいぶ良さそうだ。
「おばあちゃんに用なら、もう少しで帰ってくると思うから中に……」
相変わらず暗いで秋夜は統を迎え入れようとする。
「あァ、いいのいいの。これ持って来ただけだから」
「これ……」
野菜の入った袋を秋夜の前に差し出す。
秋夜の黒い瞳はジッと野菜を一点に見詰めている。
「じいちゃんが作った野菜。お裾分けね」
「あ、どうも。ありがとう……」
秋夜との会話では、間に必ず沈黙ができる。彼は話題を広げようとしないので、そこで会話が終わり、先に続かないのだ。その『間』にこちらの調子も狂う。
統は、どうにか話を続けようと話題を振った。
「ここ、秋夜のばあちゃん家だったんだね。秋夜もここに住んでるの」
「うん……」
いつもの事だが、彼はなかなか目線を合わせてくれない。
でも、いつもよりは会話ができているんじゃないだろうか。
「東京からまたこんな田舎にね。何にも無いだろう、ここ。人の数も桁違いだろうし……俺、東京なんて行った事ないから分からないけど」
何か話題を作ろうとしても彼の表情は変わらず暗い。このままでは、卒業まで学校に馴染むことはないだろう。
「こっちに来たのは親の仕事の都合とかなにか?」
そう尋ねると彼は黙り込んでしまった。
彼は何も言おうとしない。
何か言いたくない理由でもあるのだろうか。彼は黙ったまま、口を開かない。
転校してくる時期といい、やはり訳あり。ということか。
統はそう理解し、これ以上詮索することは止め、黙った。
――ブーブー
沈黙の中、ポケットの中で統の携帯がなった。
「あ、じいちゃんからだ」
メールには早く戻って畑まで来い。と書かれている。
「もう帰らないと」
「ああ、うん」
「じゃあな、また学校で」
秋夜は終止俯いたままだった。
やっぱり難しい奴だ、と統は思った。
数日後、統は秋夜と一緒に委員会の作業をしなければならない場面があった。それは、普段、壇や鉢植えの管理をしている用務員と一緒に鉢植えの移動を行うというもので、その花たちは、校庭の端に並べられている。移動させる理由があるのかと訳を訊くと、部活で鉢にボールが飛んで当たり、鉢が割れて危険だという事と、他にもボールはよく飛んでくるらしく、花が潰れてしまっては可哀想だという話だった。
鉢植えは全部で五十個近くある。学年全員で一人一つ運べば早いのに……と思ったが、頼まれたのだから仕方が無い。結局、統と秋夜以外のメンバーが来ることはなく、用務員さんとの三人でやることになった。
意外と量があるな……。
鉢は案外大きく、一度に二つしか持てないというのが困った。これでは余りにも時間が掛かる。台車で運ぼうと思ったが、既に台車は夏休み明けの植え替えの準備に使われていた。
もう何往復しただろう。腕は疲れて痛い。
統は「ふー」と息を着く。
時間は掛かったがようやく終わりが見えてきて、統はホッと胸をなで下ろす。
日が落ちるのが遅く、気が付かなかったが時計は既に六時を過ぎていた。
「これで最後だ」
最後の鉢を手に持つ。
ここまで、秋夜との会話は無い。
秋夜は無言のまま、鉢を運んでいる。
避ける……とまでは行かないが、こちらが歩み寄ろうとすると、彼は逃げてしまう。
幾ら統が誰とでも仲良くなれると言っても、そもそも仲良くなる気のない彼と関係を作るのは無理なのではないだろうか。と思い始めていた。
何を見ているのか、秋夜は遠くを見詰めていた。
謎だなぁ。
以前、一人で弁当を食べている秋夜を見たことがあった。その時も彼は遠くをずっと見詰めていた。
そんな時は彼に声を掛け、一緒に弁当を食べたりするが、俯いたまま、話をしないので気まずい。
掴み所のない男だ。
ずっと、その様子に視線を向けていると、不意に、秋夜の表情が変わった。
笑ったとか、泣いたとか、そういう訳ではない。でもさっきとはどこか違って見える。
その表情を見て、統は何故か、心を締め付けられた。
その瞬間、冷えた風が通り抜けたような気がした。
なんて表情をするんだろう彼は。
統は、彼のその瞳に悲しみを感じた。
統は彼に対して、庇護欲のようなものが掻きたてられた。
「あっ」
抱えていた鉢がずるりと落下しそうになり、それを急いで受け止めようとすると、鉢が腕に擦れた。
「痛っててて……」
痛みにさっきまで考えていたことなどは全て吹き飛んだ。
腕は擦れて、血が赤く滲んでいる。
「やっちゃったなぁ」
幸い、花は無事だった。
今夜の風呂はきっと沁みることだろう。
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