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第1話
果樹園の、よく手入れされた木々が連なる中を列車はゆっくりと走り抜け、やがて小さな駅に停まった。
士乃は列車から降り、駅舎の壁に並んで貼られた雰囲気ある温泉街の様子を写したポスターを暫し眺めた――それから、改札を抜け、山並が間近に見える駅前広場へ出てみると、ツツジの植え込みの前でタクシーが一台客待ちをしていたのでそれに近づいて行って乗り込んだ。
シートで少し腰を浮かせてジーンズの尻ポケットから名刺を引っ張り出し、その裏側にメモしておいた通りのことを運転手に向かって告げる。
「あのぉ、目見ヶ白村?の、滝井って人の家に行きたいんだけど……」
「あ、ハァ……」
運転手の返事はなんだか煮え切らなかった。それに気づいた士乃はなんでだろうと訝しく思ったのだが、やがて車が集落を離れ、かなり細くて険しい山道を進み始めたのを見て納得した――一応舗装されてはいるが、乗用車が一台通るのがやっとだ。これでは対向車が来たら、所々に設けられている待避所までどちらかがバックしないとならない。運転手には面倒だろう。こんな辺鄙なとこだったのか――
「お客さん、絵を買いに来たの?」
ふいに運転手に話しかけられた。
「えっ?いや、違うよ。俺は、バイトしに来ただけ……」
「バイト?ふうん、そう……絵のお客さんにしちゃ若すぎると思った」
特に興味も無いのか、それとも山道なのでハンドルに集中する必要があるのか、運転手はもうそれ以上は話しかけてこなかった。
こんな所まで絵を買いに来る客なんかいるんだな……士乃は、きついカーブに身体を引っ張られながらちょっと驚いていた。名刺をもう一度眺める――そこには連絡先の電話番号と「矢代蒼」という名が印刷されていた。名字が「やしろ」で、下は「そう」と読むらしい。
――士乃は数週間前、都内の繁華街でこの名刺を受け取った。
国道沿いの歩道を一人でぼんやり歩いていたら、前方に見慣れない形をした外車が止まり、そこから降りてきたスーツ姿の若い男が士乃に向かってこの名刺を差し出したのだ。彼はそれから、あの車に乗っている人が君の絵を描きたいと言っている、と告げ、自分はその画家のエージェントをしている矢代というものだ、と名乗った。
画家?エージェント?士乃は男の口から出たそれらの単語になんだか不審感を覚えながら、彼の肩越しに見える車へ目をやった――しかし後部ウインドウのガラスが遮光のためか真っ黒で、中にいるという人物の姿は全く見えなかった。
矢代は士乃に、絵のモデルになる気があったら自分に連絡してくれ、と続けて言った。謝礼ははずむから、とも。そうして車に戻って行った。
実のところ、街で士乃にこんな風に声をかけてくる男は多い――大概ホストクラブやデートクラブなどのスカウトマンだった。つまり自分は――いかにも水商売向きで、そういうのを軽く引き受けそうな感じの見かけをしている、ということだ。モデルだなんてカッコ良い風に言ったって、どうせその類だろう――士乃はそう考え、そのままほとんど無意識にジーンズの尻ポケットに名刺を突っ込んだ。
興味はなかったからその事はそれですっかり忘れていたのだが――暫く後、ちょっとしたトラブルがあって、士乃は住んでいた部屋を急に出なければならなくなってしまった。所持金はあまり無く、行くアテも無くで困り果ててしまった時、あの時の名刺の事を思い出した。士乃はそれを探し出し――ポケットに入れたままになっていた――矢代に電話をかけてみた。
すると矢代は、それだったら暫く住み込みで構わない、むしろその方が助かるから、すぐにこれから教える場所に来たらいい、と言ってくれた。XX群目見ヶ白村、滝井宅――士乃はそれを、名刺の裏に書き取った。
士乃は矢代の話をあまり信用してはいなかった。美味しい話には裏があるものだ――けれど、たとえ嘘だった所で今の士乃には別に失うものも無い――だがタクシーの運転手は、滝井の名を出しただけで絵を買いに来たのかと士乃に尋ねた。ということは――行き先に画家がいるのは本当なのだ。
山を暫く登った車はやがて、中腹にある木々に囲まれた大きな家の前――真っ白な壁に葉陰が落ち、美しい模様を描いている――玉砂利の敷かれた車回しらしい所で停車した。
タクシーを降りて代金を払ってしまうと士乃の手元には数百円しか残らなかった。掌に載せた小銭を暫く眺め、軽く放って掴み直す――チャリンと小さな音を立てたそれらをポケットに押し込みながら、さて、これで簡単には帰れなくなったぞ、と、士乃は内心で小さく覚悟を決めた。
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