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第2話
その家の玄関ドアは士乃より遥かに背が高かった。その前に立って呼び鈴を鳴らすと、着く時間を予想していたのだろうか、名刺をくれた矢代がすぐに現れて士乃を家の中へと招き入れた。
「よく来たね。タクシーすぐ捕まった?来客があったもので駅に迎えに行く時間が取れなくて……悪かったね」
「いや……はぁ……」
士乃は案内する矢代に付いて歩きながら、生返事をした。ここに着くまでに目にした田舎町の風景とはあまりにかけはなれた、大きくモダンな作りの家にあっけにとられていたからだった。
吹き抜けになった広い玄関、白塗りの壁に焦げ茶色の太い木組み、長い通路が迷路のように四方へ伸びていて――奇妙に凝った作りの建物だった。森に面した廊下の片側はほぼ全面が硝子張りで、高い天井まで繋がっている。こんな邸宅を訪問した経験がなかった士乃は、くり抜かれた天窓越しの青空、ゆっくり流れて行く雲をぽかんと見上げた。
硝子がはまっていない側の廊下の壁には、額に入れられた絵が幾枚も掛けられていた。
外に生い茂る緑と、厚く丈夫そうな硝子とに程良くゆるめられた自然光の中で、それらの絵はどれも美しく見えた――透明感のある色たちが花びらを思わせる薄さで幾重にも重なり合い、描かれた対象を形作っている。
「あのぉ……すいません……」
前を行く矢代に士乃は遠慮がちに声をかけて尋ねた。
「これって……俺を描きたいって言ってる人の絵、なんです、よね……?」
「はい?ああ、そうですよ。ここにあるのは全部、うちの先生の今までの作品……複製の、印刷物ですけど。こちらに直接買いに来られるお客様もいらっしゃるので、額装するとこうなるという見本用、です」
また歩き出した矢代の後に続きながら、士乃は首を縮めた――まさかほんとに……こんなちゃんとした芸術家の人だとは思わなかったよ――
士乃は、自分の容姿が水商売向きに見られる以外にも、いわゆる――男色趣味の持ち主にも好まれると言うことを随分前から知っていた。
以前、自称カメラマンだと言う男に写真のモデルになってくれと頼まれて、ホテルへ連れ込まれた事がある――裸にした士乃の写真を撮りながら男は結局性行為を要求し、半ば分かっていた士乃はそれを受け入れ謝礼を貰った。
男と寝るのは慣れている。金さえくれればそういう事をするのも別に平気だ――だから、どうせ滝井もその手合いだろうと考え、身体と引き換えに暫く寝泊りする所を確保しよう、とそんなつもりでいたのだ。
「あの、ええ、っと……矢代、さん?」
士乃はその場で立ち止まり、頭をかきながら矢代を呼んだ。
「ええとその――やっぱちょっと――俺なんかじゃモデル、つとまんないと思うんです、よね……」
「はっ?」
矢代が驚いた様子で振り返る。
「どうしてですか?」
「あのう、俺……あっちじゃ身体売るみたいなこともしてたんで……ここの先生、ちゃんとした人でしょ?こんなんモデルに使っちゃまずいんじゃないかな?と……」
「そんな事は関係ないです」
ふいに背後から声が響いたので士乃はびっくりして振り返った。二人から少し遅れた位置、日の射す長い廊下に、見上げるほどに大柄な男性が立っている。士乃からは逆光で、その姿は黒いシルエットになってしまい顔がよく見えない。
「滝井先生です」
矢代が士乃に向かって紹介した。そうか、この人が画家か、と士乃はやや目を細めて男を眺めた。彼はゆっくりと二人の方に歩み寄って来る。
背が高くがっしりとした体躯の男と、壁に掛けられた絵の、儚げで今にも壊れそうな繊細な画風とは受ける印象が違いすぎてどうにも結びつかなかった――そして士乃がさらに違和感を覚えたのは、画家の、すっぽりと深く被った黒い薄手のニット帽と、顔の殆どを覆っているフチの無いゴーグルのような大きなサングラスだった。そのせいで、近くで見ても人相がわからない。
どうして自分の家の中でまで顔を隠しているんだろう?脇を通りすぎる滝井を見上げながら士乃は思った――自分の身長は彼の肩にやっと届くぐらいだ。
画家の後に続いた矢代が、突っ立っている士乃を促す。
「こちらへ……居間で話しましょう」
「ええそのう……身体を売ってたとは……どういう?つまり……売春してた、ってこと……なんでしょうか……?」
矢代が、ソファに腰掛けた士乃に紅茶を勧めながら、言いにくそうに切り出した。
「うん、男の人相手に。別にそれを専門にしてた訳じゃないんだけど、金に困った場合なんかには、さ……俺、住んでたとこ追い出されたって電話で話したでしょ?」
喉が乾いていた士乃は、ティーカップに手を伸ばしながら説明した。
「住むとことか生活の面倒見てもらってた人――あ、それも、男ね。その人に、俺が昔付き合ってた男とヤってる映像見せちゃった奴がいて……」
「はあ……」
傍らの椅子に腰掛けた矢代は、紅茶を載せてきた銀盆を胸に抱え、あっけに取られたような様子で聞いている。
「あれ、騙されたんだよなあ……絶対誰にも見せない、自分だけの記念にしたい、って言うから撮るのOKしたのに……そいつ俺と別れた後、金に困ってその映像どっかに売っちまったらしいんだよ。なんかそれが、一部だけどネットに上がってるって知り合いから聞いて……まああんな奴信用した俺が馬鹿だっただけだからそれはいいんだけど、同居人に見られたのは痛かったよね……」
紅茶を啜って士乃は続けた。
「で、こんな商売してたのか!って、その人キレちゃって……それで部屋から追い出されたんだ――美味いね、このお茶。すごくいい匂いがする。なに?これ?」
「アールグレイです」
まだ唖然としている矢代に代わって滝井が答えた。
「へええ……覚えとこ。って言っても英語とかすぐ忘れんだよな~。アタマ悪いんだよね俺」
士乃は笑い
「あのう、申し訳ないけど……帰りの交通費、借してもらえない?所持金もうあと400円位しか残ってなくって……」
と頼んだ。すると滝井が間髪入れず
「駄目です」
と言う。
「ええっ?駄目?なんでだよ……踏み倒されるから?いいじゃんそんくらい……ケチんないでよぅ。センセイ、お金持ちなんでしょー?」
士乃は駄々っ子のように滝井をなじってみた。
「そうじゃなく、帰られちゃ困るからです。絵が描けない」
「えっ?じゃあ……雇ってくれんの?でも、同性とのやらしい行為の映像がどっかに出回ってるような人間だよ俺?ほんとにいいの?評判に傷がついたとかって、後で訴えたりしない?」
「そんなことは絶対にしません」
生真面目な様子で返答してくる滝井に、士乃は少々戸惑った。
「ふ、ふうん……そんなら……モデルんなってもいいけど……あの、俺、ちゃんと正直に事情話したからね?」
「わかってます」
「深刻そうなことを……なんだか随分あっけらかんと話すんですねえ……」
黙って二人のやり取りを聞いていた矢代が、あきれているとも、感心しているとも取れる調子で言った。
「だって言っとかなきゃしょうがないじゃん……黙ってて後で怒られたら嫌だもん」
士乃は、自分を怒鳴りつけて追い出した男の、恐ろしい形相を思い出しながら呟いた。
「怖い思いすんの……もう嫌なんだ……」
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