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第26話 最終章
滝井がゆっくり車椅子を押して庭に出る――車椅子の上で、士乃は外の空気を胸の奥まで吸い込みながら、木漏れ日に手を翳し、頭上に伸びる木々の枝葉を見上げた。
二人でアトリエの前庭の端まで行き、下に広がる集落の景色を眺めていると、矢代がいつものごとく紅茶を入れたカップを銀盆に載せて運んできた。
「お前も売り込みの仕事が無くて暇だろう。ここ最近、描いていないから……」
滝井が、盆の上のティーカップを取りあげながら訊ねる。
「新婚なんだし、東京に帰っていて構わないんだぞ」
結婚してから矢代は都内に居を構えていた。
「どうかお気遣いなく。彼女も学会やらなんやらで忙しいし、家にはいない事が多いので、僕の休みも今まで通りで構わないんです。はい、どうぞ」
矢代は士乃にカップを手渡してくれた。士乃の好きなアールグレイだった。
「矢代」
滝井が呼びかけた。
「はい?」
「もうお前が……忙しくなる事はないかもしれない」
「どういう意味です?」
「私が描くものは……多分今までの半分になる」
士乃は滝井を見上げた。
「先生、それって……俺のせい?俺の世話で時間とられてるから?」
滝井は士乃を見返しながら微笑んで続けた。
「矢代、お前さえよければ、親父に紹介する。以前から有能な秘書を欲しがっていてな……お前なら適任だ。親父の会社に転職すれば、東京とここを往復する必要もなくなる」
「先生」
士乃は慌てて言った。
「先生、今までつい甘えて、リハビリも通院もぜんぶ先生に頼っちゃってたけど……ほんとは俺、家に帰れるんだよ?俺、ちゃんと親がいるんだから……」
「士乃を手放す気は無い」
「でも、それじゃいつまでたっても絵が描けないよ。他に誰か雇って……」
「士乃以外のモデルをここに入れる気も、無い」
「……描くのをおやめになるわけじゃあ……ないんですよね?」
矢代が尋ねた。
「ああ。描くのは続ける。だが、残忍な絵は、もう描けなくなった……描きたくないんだ」
滝井は車椅子の脇にしゃがむと、まだうまく動かない士乃の脚を愛おしげにそっとさすった。
「そうなると……だいぶ得意客を逃すだろう。矢代には今まで通りの額を支払っていくのが難しくなるかもしれん。だから親父の秘書になった方が……」
「お心遣いは大変ありがたいですけど、僕は先生以外の方のために働く気はありません。それにうちの妻は高給取りなもので、僕が稼ぐ額が減ったところで痛くも痒くもないんですよ」
矢代は笑って続けた。
「先生の絵はコレクター用のエロティックなもの以外だって人気があるんですよ?それに先生、以前メーカーの依頼でテキスタイルや壁紙のデザインをやった事があったでしょう?あれ、とても評判が良かったじゃないですか。ですのでそういった仕事も取って来られると思うんです。むしろこれからがエージェントたる僕の出番じゃありませんか!」
「しかし……」
「先生、俺今みたいな良いご飯いらない」
士乃は思いついて言った。
「え?」
「朝ごはんも、ホテルで焼いてる美味しいパンじゃなくていい。安い食パンとかで充分だから、俺の食費の分、矢代さんの給料に回してよ」
「ふむ。確かに……食費は節約できると言えば言えますね……」
矢代が腕を組んで考え込みながら呟いた。滝井が慌てる。
「おい待て。士乃は大事な時期なんだぞ。粗末な食事なんかさせられるか」
「豪華な食事でなきゃ栄養が取れないなんてことはないんですよ?ふうむ。じゃあ僕が一肌脱ぎましょうかねえ……こう見えて、昔料理人に憧れたこともあるんです」
「矢代さん、ご飯作れるの?」
「もちろん」
「矢代の手料理?ぞっとしないな……」
滝井が肩をすくめて言う。
「失礼な」
矢代は口を尖らせて憤慨してから
「先生も士乃くんも、なんにも心配しないでけっこうです。全てちゃんと……僕が上手くやりますから。辣腕ぶりを発揮して差し上げますので、びっくりしないで下さいよ?」
と自信ありげに言い、二人に向かって大きく胸を反らして見せた――
終
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