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 和田悠介にはここ一週間猛烈に心を奪われていることがある。 「行ってきます」  野球部を引退してから使われることの少なくなった自転車を横目に、バス停へ向かう。朝練がなくなって以来、悠介は通学方法を自転車からバスに切り替えていた。楽ができるなら楽がしたい。  バス停までは徒歩で十分もかからない。住宅街を抜けて、幹線道路へ出る入り口のところ。やたらと駐車場の広いコンビニ店の正面にちまりと立つそのバス停の利用者は、そう多くはない。悠介が利用するこの朝の時間帯においては彼を含めて二人しかいない。その、もう一人というのがここ一週間、悠介の関心を一身に集めてやまない人物だ。 (あ、今日もいる。)  バス停横のオレンジ色のベンチに、その姿はあった。  着慣れた風なスーツ。やや先の擦れた革靴。持ち手がくたくたになった黒のビジネスバッグ。どこからどう見ても普通のサラリーマンである。  年の頃は二十代前半だろう。全体的にやたらと華奢で、恐らく背もそこまで高くはない。恐らく、というのは、悠介が彼の座ったところしか見たことがないからだ。髪は染めていない黒で、どうやっても芸術的に跳ねてしまうので短く刈り込むしかない悠介のそれと違い、綺麗にストンと落ちたストレート。前髪がぱっつん気味なのは男には珍しいが、それを加味しても「普通の人」という印象しか与えない。そんな人物だ。  だが、悠介の心を奪ってやまないのはその容姿ではない。 (うわあ、また食ってる)  彼はいつもバス停のベンチに腰かけて、コンビニのパンを食べていた。そのこと自体に思うところはない。  だが。十人が見たら十人が「細身」と言うに違いないそのサラリーマンが毎日口に運ぶのは、悠介のような食べ盛りの男子高生ですら気後れしてしまうような、カロリーの塊とでも呼べるような代物だったのである。ただでさえバターをふんだんに使ったクロワッサンの生地に、これでもかというほど詰められたホイップクリーム。そして表面には大量のチョコがコーティングされている。時々覚悟を決めてえいやっと食べるなら分かる。だが悠介の見た限り、彼はこの一週間毎日これを口にしていた。 (ああ、こぼしてるし。)  今朝もやはり彼はその重量級モンスターにかじりついていた。スラックスの膝にパンくずをぽろぽろとこぼし、ぼんやりと遠くを見ながら咀嚼する口の動きは緩慢だ。  ベンチの脇でバスを待ちつつ、横目でちらりと盗み見る。本当に華奢な体だ。細い首。薄い肩。胸、腹、背はあまりにも平らで、むしろへこんでいるようにさえ見えてくる。腕も、指も、力の強い悠介が握りしめたら折れてしまうのではないかというほど細い。今のところ握りしめる予定がないのが救いだ。 (あ、クリームついてる。)  赤さの強い唇の端にホイップクリームがちょこんとついている。ぼんやりとした目といい、なんだか隙の多い人だ。「ついてますよ」と余程言ってやろうかと思ったとき、住宅街の角を曲がってバスがやってくる。悠介の学校方面へ向かうバスだ。  定期を取り出して人の少ないバスへ乗り込むが、男はベンチに座ったまま動かない。便が違うのだ。  やがてドアが閉まり、バスが走り出す。振り切るように視線を車内に向けた。つい毎朝、目がいってしまう。いつか太るぞー、なんて意地の悪いことを考えたのははじめの一週間だけだった。

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