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side・Sの独白
革靴の気味の良い音が、薄暗い路地裏に反響する。
何の変哲も無い雑居ビル。所々塗装が剥げた緑色の扉は立て付けが悪く、ひとつ舌を打つと脚に力を込めて蹴りを放った。吹き飛ぶ勢いで開いた扉の先に足を踏み入れる。
外観の割に、床には塵一つ落ちていないのは、部下が言い付け通りに磨いている証拠だ。
エレベーターの横には男が青ざめた顔で90度に腰を折っている。
一瞥して、男が開けたエレベーターに乗り込み、上へ向かった。
浮遊感が収まり、鉛色の扉が開いていく。
箱から出ると、モーゼの十戒のごとく男共が廊下の両端に並んでは一斉に頭を下げていた。
見慣れた光景に何の感心も浮かばないまま、奥へ進んでいく。
執務室に入れば、ソファーの横を通り過ぎ、下ろされたブラインドの前にあるデスクへ向かうと腰を降ろした。
パソコンにパスを打ち込み、大量にあるファイルの一つをクリックする。
パッと動画が浮かぶ。
愛しの『猫』が丁度リビングで食事をしているところだった。
主人がいない間、面倒くさがりの彼はシャツ一枚で過ごしている。すらりと覗く脚を撫で上げて、開いて、内腿に歯を立てたい衝動に駈られるのはいつものことだった。
たまに夜を思い出すのか、自分で慰めている様子も見えて、僕自身も何度ここで欲を吐き出したことか。
腹が膨れたからか、いつの間にかソファーでお昼寝を初めていた。
「かわいいなぁ」
つい、口元が緩んでしまう。
だが至福な時間は、唐突に鳴ったバイブ音で壊された。
「…はい。」
「どうも、ご無沙汰です。例の件、無事済みました」
「そう。」
「これも貴方のお陰です。今度食事でもいかがですか?いい店をご用意しますよ」
「お気遣いなく。俺は小耳にした情報を君に聞かせただけだよ」
「貴方の情報が間違っていたことは無いんですがね…金は下の者に預けて、今日中に届けさせます」
「ありがとう」
「では、またご連絡します」
通話を終えた後、また別の番号を呼び出す。
ワンコールで繋がった。
「は、はい!」
「この間使った売人、あっちに渡る前にバラして沈めておけ」
「了解しました!」
「あと例の客、もっと膨らませろ。借金さえ作れば利子は後からいくらでも付けられる」
「はい、…あの、これって何を……」
「………それ、俺に聞いてるの」
「ーっ!いいえ」
「夜には報告しろ」
返事を待たずに一方的に切ると、背凭れにゆったりと身体を預ける。
さて、ようやく終わりそうだ。
一年前の夏、僕は運命の出会いを果たした。
紛れもない初恋だった。
田辺誠の交遊関係は部下を使い、全て調べあげていた。
当然、沢口愛実が密かに特定の売人から薬を受け取っているという情報も耳に入っていたため、売人に金を握らせて薬をすり替えることは造作もないことだった。
特別製の薬は自分がブレンドしたもので、普段は拷問用に使っている。
個人差はあるが、一度吸うと、幻覚、幻聴、不安感が他のとは比にならない程に強く出る。加えて依存性も高いために1日も吸わずにはいられなくなる。
あとは田辺誠との接触を待つだけだった。
死人に口はない。彼女は深い酔いから覚めたとき、冷静に自分の立場を理解して田辺を加害者に仕立てあげることは予想していた。
警察が全く疑わなかったことは、彼女の演技力に感謝するべきか。
おかげで警察が嗅ぎ付けたという情報を流すだけで、あとはあちらが勝手に証拠、痕跡を消してくれる。先程の電話では、どうやら無事に済んだらしい。
まさか自分達の売り捌いているモノのなかに、異物を混ぜられていた事など、売人の口を閉ざせば知る由も無くなる。
まぁ、バレたところで問題はないが。
『相談役』の僕に仕掛けたら最後。裏社会に生きる者にとっては、空は青いことを説かれるより、当たり前のことだから。
全ては彼を手に入れるため。
父親をキャバクラに通わせて、店全体でどっぷりと浸からせる。いずれ膨れ上がる借金は、別居中の母もろとも絞り上げるつもりだ。
行く宛のない彼は、僕の腕のなかに自ら入ってきてくれるだろう。
まだ足りない。満たされていない。
真綿で締めるように、少しづつ、少しづつ。
僕の愛で溺れさせよう。
目も耳も鼻も手も脚も胴体も声も笑顔も泣き顔も死に顔も。
彼の全ては僕のものだ。
誰の手にも渡らせない。
先を想像すれば、自然と口角が上がる。
きっと今の僕はこれ以上にない程、幸福な笑みを浮かべているはずだ。
「楽しみだね」
画面に映し出される彼を指先でそっと撫でた。
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