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1.雪降る街①

 新雪みたいな、ふわりとした、柔らかな声だった。  十一月初めの、少し寒い日だった。  北陸は、とかく雪が多い。窓は凍り、道は消える。海側ならまだしも、山の麓の地域にもなると電車やバスなどの公共交通機関は信用できない。かといって、ただでさえ歩くのが困難な雪道を、最寄り駅まで何キロも歩くことなど到底できないので日常生活に自家用車は必須だ。  昴は勤務先から自宅まで三十分の道のりを走っていた。乗っているのは、通勤のために必要に迫られて購入した中古の軽自動車だ。教習所の自動車と違ってサイドブレーキが運転席の左側ではなくアクセルやブレーキの反対側にあって足を使って操作するタイプなので、乗り始めた当初は使いにくかったが徐々に慣れた。 (図書館寄って帰ろうかな)  土曜日は比較的早く上がれることが多い。とはいえここしばらく納期続きで忙殺されていたので図書館に行くのは久しぶりだ。夕焼けに赤らむ視界の中、昴は市立図書館の方向へハンドルを切る。  駐車場に着く頃には薄暗くなっていた。 「うわ」  車の窓ガラスにはらりと落ちた雪の一片を目にして上がるのはそんな声だ。雪にいちいち喜ぶのは子どもか余所から来た人間だけで、二十六にもなればこの先の苦労を思ってため息ばかりが漏れる。まず、雪道で通勤時間が長くなるし、その前に夜の間に降った雪を掻いて車の出口を確保しないといけないし、会社へ行っても最初の仕事は雪掻きで、帰る時もまず雪掻きだ。  その前にタイヤも交換しないとなあと思いながら図書館の玄関に向かう途中、ふと顔を上げ、そこで目が合った。  彼は窓ガラスの向こう側でこちらに向けて微笑を浮かべると、軽く会釈をしてからその身を翻した。 (どうしよう)  昴は放心状態で、あるいはどこかひどくすっきりとした冷静な頭で考えた。 (今月―― いや来年の分のラッキーを全部使い果たしてしまったかもしれない)  それから徐々に熱を持ちはじめた頬を手の甲で擦りながら玄関へと足を進めた。  あの人がこの図書館へやってきたのは、今年の春だった。 『斎藤さん』  不意の呼びかけに振り返れば、若い司書が小走りでこちらへ寄ってきた。 『斎藤昴さん』  綺麗な声だと思った。 『落とされましたよ』  差し出されたのはこの図書館で使われている薄いブルーの貸し出しカードだ。すぐに受け取ることができなかったのは名前を正しく呼ばれたせいだ。  この昴という名前は昂ぶるという時によく似ていて、字を間違われることは学生時代から何万回とあったし、コウと呼び間違えられることだって何度もあった。初めから間違われずに呼ばれるということが、昴の人生にはあまりなかった。  正直その前から綺麗な人だなと思ってはいた。その上かっこよくて、それなのに特に目立つといったふうでもなくて。極めつけにあの声を聞いてしまっては、その人はあっさりと昴の図書館へ通う理由のひとつに加わってしまった。  でも、昴が知っているのは左胸の名札に書かれた「望月」の二文字のみ。  土曜の夕方の図書館の込み具合は、まあ普通といったところだ。田舎だからかもしれないし、子連れの人なんかが来る時間はとっくに過ぎているのかもしれない。それでもちらほらと、昴と同じように会社帰りらしい仕事着―― つなぎやスーツ姿の人間が見える。  昴は適当に本を数冊選ぶと、カウンターで貸し出し手続きをする人の後ろに並んだ。 「二番目にお待ちの方、こちらのカウンターへどうぞ」  並んでから数秒と経たないうちに、後ろからそんな声がかけられた。ここの職員が皆揃いでつけているベージュのエプロンの左胸には、「望月」の文字がある。 「…… あ、すみません。貸し出しカード忘れちゃって……」 「お名前お伺いします」  カウンターに本を置きながら、昴は口を開く。 「斎藤昴です」  彼は一つのカウンターに一台ずつあるパソコンをキーボードとマウスで操作しながら「斎藤昴さん……」と小声で呟いた。  昴は内心興奮していた。どうしよう、今日はラッキーがありすぎる。目が合っただけでも相当のラッキーなのに、貸し出し手続きもしてもらえて、その上名前まで読んでもらえるとは。 * 「昴はそっちの人なの?」  友人の口から突然飛び出した問いかけに、昴は思わず「は?」と声を出した。彼、高橋冬真は小さい頃から仲良くしている友人のうちの一人だ。特に冬真とは実家が近いということもあって、週末になると度々互いの家に行っては他愛ない時間を過ごしている。 「そっちって何」 「この半年ほどずっと同じ話してるから、そっち側の人なのかなと思って。…… あ、でもあれか。昴の男好きは今に始まった話じゃ……」 「ちょっと待ってその言い方めちゃくちゃ語弊がある」  冬真が買い物カゴの中に缶ビールを放り込みながら一人で納得したように言って、昴は慌てて否定した。 「ちょっとした、憧れみたいなもんだよ。本読んでホームズやルパンや明智探偵をかっこいいと思うのと一緒でさ」 「俺その人たち知らないわ」  昴が懸命に誤解を解こうとしているのを背中で聞きながら、冬真はつまみをいくつかカゴに入れた。 「じゃあ別にその人とどうにかなったり具体的になにかしたいわけじゃないんだ」 「なにかって」 「キスとかセッ――」  友人の口から飛び出しかけた単語に昴は大声を出して止めた。 「わかった、わかったもういい!」  大きな声を出したせいで周りの客が数人、振り返って昴たちを見た。そのなかに、彼の人の姿があったのを昴は見逃さなかった。不自然にその場で動作を停止した昴に、冬真は声をかける。 「…… 昴? どうし……」 「―― おっ、おっ王子がいたっ」 「えっ、マジ? ていうかお前王子って呼んでんの?」  キモいな…… と素直に感じたことを口にする冬真の背中に半身を隠す昴の姿を、向こうも捉えた。彼はこちらを見るとまたにこりと微笑を浮かべ、小さく会釈をした。 「………… 俺たった今このスーパーが爆破されてこの身が塵になったとしても幸せだ」 「俺も巻き添えじゃねーか。つか、あの人なの?」  身を翻して遠ざかっていく彼の背中を見ながら言う冬真に昴は「そう」と何度も首を振って頷く。 「かっこよくない?」 「あんまよく見えんかった」 「もう本当めちゃくちゃかっこいい…… 俺ほぼあの顔見に図書館通ってるもん」 「あ、そ」  冬真は今度こそ呆れたようにため息を吐いた。 「今ので幻滅されたかもしんないけどな」 「…… えっ?」 「だって普通こんな公共の場ででかい声出すような人間にプラスの感情抱かないだろ」 「ま、まじ?」 「知らんけど」  まさしく他人事のような態度の冬真の後ろで、昴は背中に冷たい汗を流した。 *  どうしよう。めちゃくちゃ幻滅されていたら。 (いやていうかそもそも冬真があんな所であんなこと言うから)  もし次図書館に行った時に冷たい対応をされたらへこむ。本当は、できることなら毎週でも毎日でも図書館に通いたいけど、貸し出し期間が二週間と決まっている以上そんなふうに通い詰めるのはなんだか恥ずかしい。本が好きならいいけど、いや本ももちろん好きだけど、職員目当てで通うなんて一歩間違えればストーカーだ。よくない。  今日は日曜日だ。昴は図書館の駐車場から玄関へ続いている狭い道を歩いていた。いつも日曜になると道路を挟んで向かいにある小学校のグラウンドで地域の少年野球クラブが試合をしている。雪が降ればさすがにいなくなるが。  雪は先日ちらっと降ったきりしばらく降っていない。ここ数年暖冬が続いているから、今年もそうだと楽なのだが。 「―― あっ」  ロビーの外では、エプロンをつけた上からカーディガンを羽織っている望月が落ち葉を掃いているところだった。望月は昴を認めるとなにか言いたげに口を開きかけ―― 同時に、くしゅんと小さくくしゃみをした。 「だ、大丈夫ですか」  目が合ってしまった手前そのまま通り過ぎるのもおかしい気がして声をかけると、望月はすみません、とひとこと謝った。 「今日は冷えますね」 「あ…… ですね。来週は降るみたいですよ」  ニュースで言っていた雪の話をすれば、そうみたいですね、とまた返事が返ってくる。  ―― これ、完全なる世間話だよな?  昴は現状に混乱しつつ自問自答する。なぜ今自分はまだ図書館に入ってもいないのにカウンター越しでない彼と言葉を交わせているのか。 「この前、国道沿いのスーパーにいました?」 「い…… いました……」  やっぱり、と微笑む姿が眩しい。思ったよりも社交的な人なのだろうか。なんかもう全部が輝いていて眩しすぎて直視できないし会話も全く頭に入ってこない。にもかかわらず、彼を見ていると勝手に笑みがこぼれる。 「―― なんですけど、よかったらどうですか?」 「あ、はい」  投げかけられて、咄嗟に適当な返事をした瞬間、目の前の顔がぱっと輝く。 「よかった。待ってますね」  全然なんの話かわからない。 「一時半から児童コーナーでやるので」  そう言い置いて望月は手早く枯葉を集めると今度は小走りで駐輪場を掃きに行った。一体自分はなにに快諾したのだろうか。なにはともあれ使い古されたほうきとちりとりで掃除する姿も素敵だ、と思いながら緩やかな傾斜になっている玄関までの道を進んだ昴は、ふと足を止める。  キャスターつきの縦長のホワイトボードには、絵本の読み聞かせの案内が貼ってある。明らかに子ども向けだ。望月が言っていたのはたぶんこれのことだろう。  読み聞かせる予定の絵本は昴の知らないものだ。  絵本が好きそうに見えたのか、それとも、そのくらい年下に見えたとか。―― なんにせよ、彼と話せたのは嬉しいけど。  図書館の一角にある児童コーナーは、小さな子どもでも座って読めるようにか床にカーペット生地が張ってある。時間が近づくとちらほら子どもが集まっているがそれにしても少ない。始まる時間になっても集まったのは片手で足りるか足りないかくらいの人数で、昴は自分が誘われたわけを察した。  せっかく準備してもこんなに少ないんじゃ寂しいよなとコーナーのそばに立ってぼんやりと子どもたちを眺めていると、絵本を持ってやってきた望月と目が合う。彼は絵本を持ったまま昴に向かって小さく手を振った。 (なんだ? 俺は今日死ぬのか?)  カウンター越しじゃなく言葉を交わせただけでも正直奇跡だと思っているのに、なんだか色々と過剰摂取だ。月に二度、二週間に一回、ただ遠くから眺められればそれで満足だったのに。  ふと、先日の冬真の言葉を思い出す。  昴の気持ちはアイドルとか芸能人に対するそれと同じで、具体的にどうこうなりたいのかなんて問いはまるで見当違いのはずだった。 「斎藤さん」  あれこれ考えている最中真横に突然姿を現した彼に、昴は文字通り飛び退きそうになった。 「よかったら、もう少し前で聞いてください。あんまり人いないから」  そう言うと望月はやや寂しそうに笑った。今すぐ街中から子どもを掻き集めて連れてきてやりたい衝動に駆られながら、昴は必死に理性を前に押し出す。 「いえその…… 子どもと一緒にはちょっと恥ずかしいので、ここで」 「あ…… そうですよね。すみません」  こんなところに突っ立ってる時点で大分目立つし恥ずかしいはずなのだが、望月は納得して昴から離れていった。望月が読むのかと思ったがそうではないらしく、彼は後ろの方に立ち時折落ち着きのない子どもや、喧嘩を始めた子どものそばへ寄って対処している。大変そうだ。  読み聞かせが終わると望月は、ばいばい、また来てね、と子どもたちの前にしゃがんで言葉を交わしていた。  彼が子どもを好きなのか、子どもが彼を好きなのか。  昴は遠目にその光景をしばらく見てから、静かにその場を後にした。

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