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2.雪降る街②
もうすぐ十二月だ。
予報通り今週から雪が降り始め、図書館へ行った日の翌日に交換したタイヤがその役目を存分に果たしている。薄く地面に広がった雪は水分が多いためか滑りやすく、すっかり日が暮れているせいもあっていつも以上に慎重にならざるを得ない。昴はウィンカーを出してコンビニの駐車場に入り込んだ。背後で市内を走っているバスが通り過ぎていく。
店内に入るとクリスマスケーキの予約の張り紙がしてある。もうそんな時期かと思いながら昴は家族に頼まれた食パンを手に取った。他になにか頼まれていたっけとポケットからスマホを取り出そうとして、肘が後ろにいた誰かにぶつかった。
「あ、すみません」
「いえ――」
目が合って、思わず黙ったまま見つめ合ってしまった。
「…… あ、えっと、こんにちは…… じゃなくて」
いつも昼間に会っているせいで、咄嗟に昼の挨拶を口にした。すると彼は小さく笑い声を漏らす。
「こんにちは」
もう夜ですけど、と可笑しそうに付け足す姿に、昴は無意識に己の胸ぐらをつかんだ。
「朝ごはんですか?」
「そうです。家族に頼まれて」
手にした商品を指して言うので、昴は頷いた。
「も、ちづきさんは、晩ごはんですか」
初めて口にする名前にどもりながら聞けば、望月は「そうなんです」とさっきの昴と同じように頷く。
「家帰って作るのも面倒で、というか料理がちょっと……」
まだ勉強中で、と望月は恥ずかしそうに笑いながら続けた。
「最近寒いから出来立ての温かいものとか食べたいんですけど、春に引っ越してきたばかりなのでお店も知らなくて」
このあたりは川と田んぼと畑ばかりの田舎だから、彼が思うような店があるかは微妙なところだ。辛うじて数キロ先にある最寄り駅の方へ行けばいくつかチェーン店があるくらいだ。
「家この辺なんですか?」
「もう少し先の方です。コンビニがここしかないので」
たかがコンビニに行くのさえも車を出す必要があるのが田舎の悲しさだ。
「でも向こうにたしかラーメン屋ありますよね」
「え、そうなんですか?」
「ほら、あの神社の裏手から…… ああ、大通りから外れてるからわかりにくいのかな」
望月の指さした方角の街並みを思い浮かべて昴は説明しようとするが、やや道が入り組んでいるせいで説明しづらい。どう説明したものかと考えているとすぐそばでなにかがきゅうと音を立てた。空腹時の腹の音みたいだなと思って目の前に視線を戻すと、頬を染めて腹を押さえる男の姿がある。
「………… い、行きます?」
気づけばそう口にしていて、店の敷居をまたぐまであっという間だった。
*
「味噌ラーメンひとつ」
「あ、同じのください」
入店して席に着くなりいつもの流れで注文してしまってから、今日は違うのだと気づいた。すみません、と急いで謝ると、いえ、と返される。
「斎藤さんと同じのにするって決めてたので」
天使か?
思わず口にしかけて、すんでのところで自分を抑える。
「あ、この映画知ってる」
店の壁に掛けられたテレビ画面を見ながら望月が言った。流れていたのは毎週金曜の夜九時にやっている映画番組枠の宣伝だった。何年か前に劇場で公開した恋愛映画で、かなり昔に出版された本が原作になっている。
「俺これ映画館で見ました。原作の本探してるんだけど見つからなくて」
「僕持ってます。古本屋でたまたま見つけて」
いいなあ、と昴が何気なく言うのを望月がふとした様子でじっと見つめた。
「貸しましょうか?」
えっ、と突然の申し出に対応できず固まっている昴をよそに、望月は話し続ける。
「図書館にないですもんね。絶版になってるし」
「そ―― そうですね、でも」
「でもすみません、僕引っ越したばっかでまだ本とか段ボールの中なんで、見つけるの少し時間かかっちゃうかもしれないんですけど」
「いやっそれは全然かまわないんですけど、あの」
話の進む速度についていけないでいる昴をよそに、望月は「よかった」と柔らかく微笑む。
「じゃあ、見つけたら連絡しますね」
「…………」
「連絡先、聞いてもいいですか?」
展開が早すぎて、正直ついていけない。
どうして今、自分は、ついこの前まで見ているだけでいいと思っていた憧れの男と仲良くなって、ラーメン屋なんかに入って、スマホを突き合わせて連絡先なんか交換しているのか、まったくわけがわからない。
「―― 望月北斗、さん」
画面に新しく連絡先として追加された名前を読み上げると、目の前で本人が「はい」と返事をした。
「………… 北斗さん」
「はい」
熱にうかされたように繰り返せば、彼は律儀に返事をしてくる。それが妙に恥ずかしくて、昴は男から目を逸らした。いっそ酒でもかっくらってしまいたい。
「…… 名前かっこいいですね」
「そうですか?」
昴が言うと彼はまた恥ずかしそうに笑った。
「なんか名前と本人が釣り合ってないってよく言われるんですけど」
そんな馬鹿な。その評価を下した人間を問い詰めたいような思いに駆られつつ昴は水を飲んだ。
「かっこいいですよ。…… 北斗さんも」
「ありがとうございます。…… なんか照れますね」
なんかもうキャパオーバーで死んでしまいそうだと音を上げそうになった頃、昴の目の前にラーメンが置かれる。ふたりの間にひとつずつ置かれた、まったく同じラーメンを、ふたり向かい合って啜った。
時折二言、三言交わしながら食べるうち、ただでさえ人がまばらな店内の客が減っていく。音もなく降りしきる雪と、人のいない店内に響くテレビの音。あまりにも静かで、干渉するものがなにひとつないので、なんだか勘違いしてしまいそうになる。
(勘違い? 勘違いってなんだ?)
そもそも彼のことは単なる通いの図書館に務める司書で、お互い顔見知りでしかなくて、個人的な会話なんてできるとも思ってなかったのに。望んですらいなかったのに。物語の登場人物と同じで、彼の人生と自分の人生が交わるなんてことはあるわけないどころか、想像すらしなかったはずなのに。
「昴くんは……」
と、突然下の名前を口にされて昴はむせ込んだ。
「―― だっ大丈夫ですか」
口に含んでいたのが水だったのもあって昴はすぐに落ち着きを取り戻した。
「昴くんの昴は、プレアデス星団の昴ですか?」
「プレ……?」
呼吸が整うのを待ってからされた質問に、昴は首を傾げた。
「知りませんか? だいたい今くらいの時期に見えるって言われてて―― ほら、あの小説誌の由来にもなってるんですよ」
それは知らなかった。へえ、と相槌をうつと目の前の男はまたもやや照れたように続けた。
「僕の名前が北斗七星の北斗なんで、もしそうだったらおそろいだなーって思ってたんです」
昴は叫び出しそうになるのをぐっと堪えながら唇を噛んだ。こっちはもう一生分のキャパはとっくに越えているので勘弁してほしい。
「―― それじゃ、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「また連絡しますね」
店を出てからそんなやりとりをして別れた。
その日はほとんど夢心地で、姿を見られた日だとか、カウンター越しに話せた日なんかとは比べものにならないようなふわふわした気持ちで眠った。その程度で喜んでいたのが、まるで嘘みたいに。
*
十二月になると、図書館のロビーには小さなクリスマスツリーが飾られる。館内でもクリスマス関係の本の特集が組まれていて、見ているだけでも楽しい。そういえば今日は休みなのか、それとも裏で別の仕事をしているのか、北斗の姿を見ない。いやまあ、遠くから眺められるならそれに勝る幸せはないし、つい先日のあれで許容量はとっくに越えているのでいっそ会えない方が助かるのだが。でも顔を少しだけでも見たいなあと思いつつ昴がいつも通り数冊の本を借りてロビーへ出ると、ちょうど北斗が二階から降りてくるところだった。
「昴くん、こんにちは」
「こんにちは……」
名前で呼ばれたのは別に夢ではなかったらしい。慣れない呼び名にそわそわしつつ見ると、北斗は絵本を何冊か腕に抱えていた。
「また読み聞かせですか?」
「そうなんです。今回はクリスマスが近いので、サンタとかトナカイとか、そういう感じの本を読もうってことで」
「いいですね。俺もクリスマスの話借りましたよ」
「週末はそれ読まれるんですか?」
尋ねられて、昴は苦笑いした。
「週末っていうか…… まあ盆も正月もそんな感じですね。クリスマスも。遊ぶ友達もあまりいないので、暇なんです」
なかば自虐ぎみに笑いながら言うと北斗はくすりと笑った。
「僕も同じです。実家に帰る予定もないし、顔を出す親戚もいないので…… あ、でもクリスマスは、好きな人と過ごせたらいいなって思っているんです」
「…… あ、そうなんですか」
一気に夢のなかから引き戻されたような気がした。
「まあ、フラれちゃうかもしれないんですけど」
「えーがんばってくださいよ」
応援してるので、と思ってもいない言葉がすらすらと出た。頭の中が真っ白で、勝手に動いて次々と言葉を放つ口とはまったく別のところにあるみたいだった。
そのあと、なにを言って彼と別れたのか少しも覚えていない。
気づけば帰宅して部屋に寝転んでいた。
(クリスマスは、好きな人と)
なんなのだろう。
いったいなにが、自分をこんな気持ちにさせるのだろう。
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