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3.hard,so hard①

(…… 楽しかったな)  久しぶりだった。誰かと出かけたのも、彼のことを忘れていられたのも。  北斗はスマホの画面に映る名前をじっと見つめた。少し強引だったかもしれない。昴の方は少し呆気に取られていたような気もするし。 「あ、本……」  そうだった。そもそも、本を貸す約束で連絡先を交換したのだ。完全に口実だったので忘れていた。北斗は立ち上がって部屋に積まれた段ボールの山に視線を向ける。引っ越したばかりとはいったが、実際に引っ越したのは今年の三月で本当を言えば全然引っ越したばかりではない。もう半年以上経つにもかかわらず、片付けのまったく進んでいないこの部屋を昴が見たら、失望するだろうか。…… するだろうな。  段ボールの側面に黒のマジックで書かれた、本という一文字はなんの役にも立たない。同じ文字が書かれた段ボールがあとふたつあるからだ。過去の自分はいったい未来の自分に何を期待したのだろうか?  段ボールを開け、みっちり詰まった中身にげんなりしつつ目的の本の捜索を始める。この本ではない、これも違う、と探しながら文庫本はとりあえず床に、重たそうな本は空の本棚の下段に入れていく。そうして順調に片づけを進めていく最中、一冊の本が目に留まる。  高校の時に何度も読んだ本だった。  何度も読み返しているせいでややくたびれているページをぱらぱらとめくって、はっと我に返る。  いけない。読み始めてしまうところだった。北斗は慌てて本を閉じ片づけを再開させた。―― と、その時段ボールの上に放置したスマートフォンが振動とともに音を鳴らした。画面に映る名前に、北斗は一瞬躊躇してから通話ボタンに手をかけた。 「―― もしもし。母さん? …… うん、元気。そっちは変わりない? おばあちゃんとか…… あ、そう…… いや、食べてるよちゃんと――」  おもむろに立ち上がりかけた際に膝がぶつかったのか、積み上げた本が崩れた。 「…… ごめん、ちょっと本が…… 片付けてるよ。―― で、なんだっけ…… 吹雪? ………… ああ、うん…… いや最近あいつも仕事忙しいみたいで会ってないから。…… べつに吹雪ももう子どもじゃないんだから、そんなに心配しなくても大丈夫だと思うよ。…… うん。それじゃ―― わかってるって」  じゃあね、と北斗は会話を断ち切ってスマホをベッドに投げ、片づけを再開させた。 * 「―― おかしいな」  図書館の事務机の前で、壁にかかったカレンダーを見ながら北斗は呟いた。 「望月くん、どうかした?」 「あ、いえなんでも」  前回昴が図書館に来て本を借りていってからもう二週間経ったはずなのに、彼はまだ図書館に現れない。 「向こう行く前に返却ポスト見てきてくれる?」 「はーい」  閉館時でも本を返却できるように設置されているポストを見に行くと、本が何冊か投げ込まれている。 「…… あ」  ―― 俺もクリスマスの話借りましたよ。  先々週、そう言って昴が借りていった本がここにある。気のせいかも、と思って返却手続きをしてみると確かに彼の借りていた本だったことがわかる。  次の日も、その次の日も、昴は来なかった。普段来るのが土曜か日曜だから、週末まで来ないかもしれない。もしかすると、年明けまで来ない可能性だってある。 (別に、僕に会いに来てたわけじゃないもんな)  単なる市立図書館の利用者と職員で、それだけだ。ここの図書館は規模も小さいし、本を借りたいだけならもっと大きな街の大きな図書館に行った方がいい。別に必ずいつもここに来なきゃいけない理由はなくて、関わりができたように思えたのも勝手にこっちから馴れ馴れしく話しかけたからで、向こうは特に、北斗のことはなんとも思っていないのかもしれない。  いったいなにを期待していたんだろう。  勤務を終えて、バス停に向かいながらスマホで運行状況を確認すると、当然のように遅れているのがわかる。冬場は仕方がない。通勤だけでなく普段の買い物にいくにも不便なので早めに車が欲しいと思っていたが、なんだかんだと出費がかさんでいまだに買えていない。母や祖母が中古で良ければ買ってくれると言っていたけど、さすがに甘える気にはなれなかった。  しばらく待っていると暗い夜道の向こうから大きな車体がライトを光らせ、湿った雪を弾きながらやってくる。市内を走っている小さなバスで、乗っているのも北斗と同じ仕事帰りのような人ばかりだ。 「北斗」  後ろの方の座席に座ってぼんやりしていると、突然声をかけられる。 「隣座らせて」 「…… あ、うん」  古びた座席に成人男性が二人並んで腰かけると、やや窮屈だ。北斗は横目で久しぶりに会う彼の横顔を見つめた。通った鼻筋と薄い唇、そして長い睫毛が印象的なその顔立ちは女性には好かれそうだが、反対に男性からは疎まれそうなほど整っている。 「吹雪、いつも帰るのこの時間だっけ」 「今日はちょっと早めかな。飲みに誘われたけど、逃げてきた」  睫毛や肩に積もった雪片が車内の温度で溶けて水滴になっている。 「なんて言って逃げてきたの?」 「『このあと彼女と会うので』つって」  北斗は思わず噴き出した。吹雪の口調や作り笑いが完全によそ行きのようで、他人のようで、だけどやっぱり吹雪で、彼が実際にその場で言っているのを想像すると可笑しかった。 「北斗明日ひま?」 「普通に仕事。なんで?」 「ちょっと飲みたくない?」 「仕事だって言ってんじゃん。ていうかさっき逃げてきたって、自分で」 「十年来の親友と飲むのは別~」 「わっ、わっ、ちょっと」  車体がカーブするのに合わせて肩にぐいーっと体重をかけられ北斗は慌てた。ごち、と左側頭部が窓ガラスにぶつかる。 「いーじゃんたまには」 「たまには、って職場の人とはちょいちょい飲んでるんでしょ?」 「飲んでるけどさぁ」 「僕だってこの前……、職場の人と飲んだばっかだし」  これは嘘だ。  うっかり目が泳いでしまいそうになるのを堪えながら、断る言い訳を必死に探す。 「俺だって久しぶりに北斗と飲みたいよぉ」  その一方で、いつもみたいに強引に押し切られるのを望んでいる。わざとらしく出された甘えるような声は、北斗を揺さぶるには十分だった。 * 「北斗、北斗、焼き鳥半分こしよ」  もう好きにしてくれ、という気持ちで北斗はコートやマフラーを脱ぎながら席に着く。隣でメニューを眺める吹雪に目をやると、彼は薄手のロングコートを羽織っただけでほかにはなにも身につけていない。 「…… 吹雪って寒がりなくせに防寒しないよね」 「いっぱい着るとごわごわして落ち着かないんだよね」 「幼児か……」 「着込んでないけど防寒はしてるんだよ。ほら」  そう言って吹雪は左手を差し出して北斗に握らせた。ね? と微笑む姿をもしも女性が見たのなら、きっと一発で恋に落ちてしまうんだろう。 「カイロはいいけど、低温やけどしないように気をつけなよ。君皮膚弱いんだから」 「母親か」  吹雪はさっきの北斗を真似して言うと、目の前にやってきたグラスの中身に口をつけた。ビールはいまだに全然美味しいとは思えなくて、なんだかんだ柑橘系のサワーに落ち着いてしまう。吹雪もまだ北斗と同じなのか、なにか白っぽい、ビールではないなにかを飲んでいる。なに頼んでたっけと思いつつ、北斗もグラスに口をつける。 「ビールってなにが美味しいんだろう……」 「なんかね、喉越しらしいよ」 「喉越し……」  いまいちぴんとこない言葉を転がしながらレモンサワーをちびちび飲んでいると、横から「北斗」と小さくささやくような声で呼ばれる。 「好きな人、できた?」  その問いかけに、一瞬ひくりと北斗の唇が震えたが、吹雪がそれを目にすることはなかった。 「…… なんで?」 「なんでって」 「なんでそんなこと聞くの?」  北斗は唇をかみしめつつ聞き返す。 「吹雪には関係ないじゃん」  アルコールがまわってきたのか、喉と目蓋がだんだん熱くなってくる。 「…… そうだね」  からんと氷同士がぶつかる音が辺りに響いた。吹雪の声はいつもと変わらない。 「関係ないね」  いつもと変わらない調子で、動かず、ただ静かに北斗を突き放すのだった。

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