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4.hard,so hard②

 吹雪が住むのは、この地域では珍しく真新しいマンションだ。駅から比較的近く何かと便がいい代わりに部屋は狭く、玄関もふたりで立つとぎゅうぎゅうになる。 「あー、もう最悪……」  酒でふわふわした頭と足で玄関になだれこみながら北斗は明日の仕事のことを考えた。日付はとっくに変わっていて、今から自宅に帰れば一体何時になるか。そもそも最終バスの時間だってもうとうに過ぎている。 「北斗水ちょうだい」  そして目の前には酔っぱらい。赤い顔で暗い玄関に座り込む男を、北斗は恨めしげに睨みつけた。彼と会ってから、もうすぐ十年になる。北斗は吹雪の頭上の壁に手を滑らせ玄関の電気をつけた。が、電球が切れているのか明かりは点かない。 「北斗、みず……」  反応がないことを不思議に思ったのか、吹雪がさっきと同じ要望を口にして顔を上げる。北斗はずるりとその場に膝をつく。いつもは近いと思う距離でも、暗闇の中では彼の顔はまったく見えない。近づく。まだ見えない。さらに近づく。まだ見えない。もっと―― 「―― だめだよ、北斗」  ふたりの顔が近づいて唇同士が触れようかという寸前、吹雪がささやいた。  顎に優しく添えられた、恋人同士であるなら甘い感覚だけを伝えるはずの指は今、北斗を拒絶するためだけに置かれていた。力強く押し返すことはけっしてない。でも吹雪は、じっと動かないまま、静かに北斗を拒絶していた。 「もう遅いし、泊まるでしょ?」  北斗が体を離すと吹雪は何事もなかったように尋ねてきた。 「…… 僕が、君になにかするとは思わないの」  ぽつりと北斗が呟くように言えば、吹雪はふっと暗闇の中で笑った。 「北斗はなにもしないから泊めるんだよ」 「…………」 「風呂、朝でいいよね」  吹雪が立ち上がって背を向けた後ろで、北斗はこぶしを握った。 「…… 僕、帰る」 「外は寒いよ」  コートを脱ぎながら吹雪は「ね、北斗」と振り返る。結局いつも、彼に負けることになるのだ。  北斗はコートとマフラーを床に脱ぎすて、吹雪のベッドに潜り込んだ。寒いから、とかもう遅いから、とか。事あるごとに理由をつけて、北斗と吹雪は同じ布団で身を寄せ合って眠る。  それでも、北斗が心から暖かく満たされたことは、一度としてないのだった。 *  クリスマスが過ぎて、年の瀬と言える頃になったその日、北陸地方を記録的な寒波が襲っていた。 「嘘……」  バスが死んだ。スマホ画面に映された情報に北斗は、絶望に近いため息を吐いた。いつもなら職場を出る際にきちんと確認して出るものを、今日この日はすっかり忘れていた。いや、ついさっきまではまったく、たいした量ではなかったのだ。天気予報でだってそんなに降るとは言ってなかったし。そう思って、近くのコンビニと、調子に乗って本屋にまで足を伸ばしたのがいけなかった。たちまち本屋の魔力に時間を吸われこの有様だ。だいたい、なぜ田舎のくせにこんなところにそこそこ大きめの本屋があるのか。ほとんど逆恨みのような怒りを北斗が持ちはじめた頃、見覚えのある靴が視界に入る。 「―― 北斗さん」  昴と同じ靴だな、と思った矢先、名前を呼ばれ顔を上げる。 「どうしたんですか、こんな店先で……」  首を傾げながら昴は口にして、それからあっとなにか気づいたように「もしかして」と言った。 「バスやられました?」 「…… はい…… 実は……」 「うわあ……」  悲壮感が前面に出ていたのか、北斗が頷くと昴は気の毒そうな声を出した。 「あの、よければ送りますよ。帰れないと困るでしょ」  そんな申し出を受けては、遠慮している場合ではなかった。 「すみません、ほんとに……」 「いや、全然そんな、ついでだし」  助手席に乗り込んだ北斗が言うのに応えつつ昴はラジオをつけた。この大雪で荒れた交通情報を伝える音声を聞いていてふと、北斗が「えっ」と焦ったような声を上げた。 「今通行止めになったところ、ちょうど帰り道です……」 「え、マジ?」  驚きのあまりついといった様子で零す昴に、北斗は慌てて告げる。 「あ、でも下道通れば」 「何時間かかりますかね…… 道も通れるかどうか怪しいし」 「じゃあホテル……」 「いや、ないでしょ、こんな田舎に……」  駄目元で言った言葉に控えめに、けれどはっきりと突っ込まれ、北斗はわかりやすく肩を落とした。 「じゃあ、手前のカラオケボックスにでも降ろしてください。ありましたよね、たしか」  そこならば少なくとも朝方までやっているだろうし、さすがにこれ以上迷惑はかけられないと思い言えば昴はなにか考え込むようにうつむいた。そしてぱっと顔を上げると「あの」と思い切った様子で口を開く。 「もしよければ、うち泊まって行かれませんか」  またしても突然の、願ってもない申し出に北斗が驚いてなにも言えずにいると昴が取り繕うように続ける。 「あっでもうち家族もいて、狭いし落ち着けはしないかもしれないんですけど、でも一応布団があるので、横になって寝られるし…… 北斗さんさえよければ」 *  誰にでも、こんなことを言うのだろうか。  昴の自宅の風呂につかりながら、北斗は考えた。風呂の外から、友達を泊めるからと家族と話している昴の声がする。彼にとっては、困っている友達に救いの手を差し伸べるということはさして珍しいことじゃないのかもしれない。 (―― 友達、友達か)  なんだかもやもやする。―― 何に?  昴は優しいから、親切心で声をかけてくれたり話してくれたり、こんな自分の相手をしてくれただけなのに、何を勘違いしているのか。  狭くて恥ずかしいんですけどと案内された風呂は、今住んでいるアパートや昔母と暮らしていたマンションの風呂に比べれば一回りも二回りも大きかった。風呂の湯は少し熱めに感じるけれど、冷えた体にはちょうどいい。 「着替え、ここに置いておきます」 「あっ、ありがとうございます」  うとうとしかけたところで声をかけられて、北斗は慌てて起き上がる。乳白色の湯船から上がって脱衣場に出ると、言われた通り着替えが置いてある。スウェットに新品の下着まで出してもらって申し訳なく思いながら居間に戻る。  家に入ってきた時も思ったことだが、ここには何人もの人が住んでいる気配がする。玄関に並んだ靴だとか、洗面所に並ぶいくつもの歯ブラシだとか。居間の先に見える食器棚にだってたくさんの食器が並んでいる。 「すみません。長湯してしまって」 「熱くなかったですか?」 「ちょうどよかったです」  晩ご飯まだですよねと言われ、食事までご馳走になることになる。こんなふうにあたたかい家庭料理を食べるのは、北斗にとって久しぶりのことだった。 「僕あったかいご飯久しぶりです」 「一人暮らしなんでしたっけ」  小さなファンヒーターから足元へ吹くあたたかい風と、すでに眠りについた家族に気を遣ってか控えめに音を落としてつけられたテレビ。静かな家の中に息づく、自分たち以外の気配と体温。 「…… それもですけど、ずっと母子家庭だったので。一度自分で何か作ろうとして火傷してしまってからは台所に立つのも止められてしまって、それからはもう出来合いのものとか…… あ、ごめんなさい。変な話しちゃった」  北斗は恥ずかしそうな顔で誤魔化すように言うと、食事に戻った。  どういうわけか、昴の前だと話す必要のないことでも口に出してしまう。  聞いてほしくて、それから優しく甘やかしてほしくて、たまらなくなる。  そしてそういうことを考えたあとは必ずと言っていいほどどうしようもなく罪悪感のようなものに苛まれて仕方がなくなるのである。 (勝手だ)  食事の後は、昴の部屋に敷いてもらった布団に横になって寝た。北斗にとって、こんなにもあたたかい夜は生まれて初めてのことだった。それなのになぜか懐かしくて、胸が締め付けられるようで、なんだか泣きそうだった。

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