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後編
「あぁ、もうこんな時間……」
誓は両手にデパートで買った総菜やケーキを提げ、やっとの思いでマンションのエントランスに辿り着いた。
帰宅ラッシュに巻き込まれる前に仕事が終わったので、会社近くのデパートであれこれ買い込んできたのだが、運の悪いことに帰りの電車が車両トラブルで止まってしまい、一時間近くもの足止めを食らってしまった。本来ならば夕方には帰れるはずだったのに、もう七時半を少し過ぎている。
「雫玖に悪いことしちゃったな」
エントランスへ足を踏み入れようとした時、背後から慣れ親しんだ声が響いた。
「誓、おかえり」
「賢矢! おかえり」
「遅延、大変だったな。すっかり遅くなっちまった」
「そうだね、早く中に入ろう。――ほら、デパ地下で色々買ってきたんだ」
手に持っていた袋を軽く掲げると、彼はいつもの笑顔をさらに深くする。
「それは楽しみだな」
エレベーターを降りて部屋の前まで来ると、荷物が多い誓に代わって賢矢が鍵を開けてくれた。
だが中の様子がおかしい。外はもう真っ暗なのに、電気が点いていないのだ。
「どうしたんだろ、電気点けてくれる?」
「ああ」
賢矢がリビングの扉を開けて照明のスイッチを入れる。すると、朝とは全く違う部屋の様子が浮かび上がった。
「――え……?」
「何だ、これ……」
二人は呆然としてリビングの入り口に立ち尽くしたまま動けなくなってしまう。目の前に広がる光景が、まるで夢の中にいるみたいに写った。
壁には折り紙を細く切って丸めたものをたくさん繋げた輪飾りや、花紙で作られた色とりどりでふわふわの花。
そして極め付きは、同じく壁にいくつも貼られた画用紙だ。そこには一字ずつ、大きな文字で、こう書いてあった。
〝パパ、お父さん、けっこんきねん日おめでとう〟
それが目に飛び込んできた途端、誓は荷物を床にどさっと落としてしまった。目頭が熱くなるのを感じながら、驚きのあまり呼吸が止まりそうになる。
「うそ……どうして、記念日のこと知って――」
「あ、なぁ誓。雫玖寝ちゃってる」
見ると雫玖はソファに横たわって静かな寝息を立てていた。待ちくたびれてしまったのだろう。
「雫玖、お父さんたち帰ってきたぞ」
賢矢が優しい声で小さな頭をそっと撫でると、雫玖はゆっくりと目を開けた。そして微睡みの淵を行ったり来たりしながらようやく二人の父親の姿を見出 す。
「お父さん、パパ……おかえりなさい」
身を起こした雫玖を挟んで座ると、心細かったのか二人の腕にぎゅっと抱きついてきた。
「雫玖、これパパ達のために準備してくれたの?」
「よく頑張ったな。お父さんも嬉しいよ」
二人は雫玖に寄り添うが返事がない。
(遅くなったこと、怒ってるよね)
『何でもっと早く帰ってきてくれなかったの!』
そう言って頬を膨らませる雫玖の姿が目に浮かぶ。だが次の言葉は誓が予想していたのとは違うもので、つい困惑してしまった。
「――えへへ、失敗しちゃった」
「え?」
「ほんとは二人が帰ったらすぐにおめでとうって言ってびっくりさせたかったのに」
そう言ってはにかむ雫玖に、余計に胸が締め付けられる。
「で、でもパパ達結婚記念日について話したことないよね?」
「ううん、前にお父さんが教えてくれたんだよ」
「そうなの?」
「んー……? ああ! こないだ誓が仕事で書斎に籠ってた時、二人でトーク番組を見てたんだ。そこで新婚のタレントが出てて、そういう話になったんだよ」
「へぇ……」
その場に自分が居なかったことが少し悔しいが、息子が記念日を覚えていてくれて、それをこんな形で祝ってくれて、純粋に嬉しかった。
「あのね、ぼくここで二人のけっこんしきをやりたいの!」
「「けっ、結婚式!?」」
思いがけず二人の声が重なる。
挙式をしていなかった誓たちにとってそれは遠い憧れであり、夢だった。
七年前なんて社会に出たばかりで経済的に厳しく、さらに男同士ということもあってそこまで踏み切れなかったのだ。その話も賢矢に聞いたのだろう。
「ね、今から最高のけっこんしきやろうよ!」
「ぅん……、うん!」
気が付けば誓の目尻には涙が溜まっていて、頷いた弾みに露のように頰を伝う。
「パパ!? どうしたの、けっこんしき嫌?」
「そんな、わけ……ないよっ」
「雫玖、パパは嬉しいんだよ」
「ほんと? お父さんも嬉しい?」
「もちろん! だーい好きな雫玖が結婚式開いてくれるって言うのに、嬉しくない奴がどこにいるんだ」
潤んだ視界で捉えた賢矢の表情は、いつもより三割り増しで緩んでいた。
誓は溢れる涙を堪えきれなくて。次から次へと滴るそれは、ソファをぽつぽつと濡らしていく。
「大丈夫か、誓」
「平気、……だよ。早く始めようっ」
立ち上がった誓は涙を拭うと、今度はとびきりの笑顔で二人に応えた。
「けっこんしきでは、ちかい の言葉を言って指輪を交換するんだよ」
「なら先に指輪渡しとくな」
「あ、うん。俺のも」
誓の掌に賢矢の結婚指輪が置かれた。それは銀でできたシンプルなもので、七年前の今日の日付とお互いのイニシャルが入っている。
誓も薬指に嵌めていたものを賢矢に預け、自分の手の中にある指輪をぎゅっと握りしめた。
「まずは誓いの言葉かぁ……あっ、こういうのはどうだ?」
賢矢が顔を寄せてきて、ひそひそと耳打ちされた。その〝言葉〟が甘く、優しく脳内に響く。
「――良いね、そうしよう!」
それは誓たちにぴったりの、愛に溢れた誓約。
「誓、こっちおいで」
「うん……」
手を引かれ、ソファの前のラグに立つ。
こんなに緊張するのはいつ以来だろう。今にも心臓が飛び出しそうで、賢矢が目の前にいるというだけで目眩がしそうなほど顔が熱い。
二人の間に合図は要らなかった。呼吸の間合い、目の動き、互いの気配。それらを感じ取ることは、結婚生活の中で自然と身についていた。
「私、紺田誓は」
「私、名取賢矢は」
「「健やかな時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、愛をもって互いを支え合い、雫玖と共に、これからも幸せな家庭を築いていくことを誓います」」
改めてこういうことを言うのは妙に気恥ずかしいというか、不思議な感じがする。だけど、同時に無性に胸がときめいて。嬉しくて、幸せで。
溢れてくる感情の波に飲まれてしまったらまた涙が止まらなくなりそうで、雫玖の方に目をやった。
するときらきらとした視線がこちらに送られていて。そんな風に注目されたら照れてしまうが、誓の中で入り交じる全ての感情が幸福感に繋がっていた。
「ほら、次は指輪交換だぞ」
再び賢矢の方へ意識を戻され、握ったままだった銀の指輪の存在をはっきりと自覚する。
「お、俺からやるね」
先に賢矢の左手を取った誓は、その指にそっと指輪を嵌める。手が震えていたにも関わらずすんなりと奥まで入ったことにほっとしていると、今度は誓の手に賢矢のそれが添えられた。
「次は俺の番だな」
そう言って賢矢は、滑らかな手つきで誓の指輪をあるべき場所に収める。
四六時中身に付けているけれど、こうして嵌めてもらうと全く違う物のように思えた。
小さな小さな結婚式。
だけどそれは、世界で一番大きな愛の形だった。
薬指で光る銀の輪を見ていると、七年前のあの日が頭に浮かんでくる。雫玖と暮らし始めた時のことも。
懐かしいようで、つい昨日のことのようにも感じられる。大切な家族の思い出だ。
「パパ、お父さん。本番はここでキスするんだよ」
「キ、キス!? ここで?」
「良いじゃないか、結婚式なんだから」
いつもなら二人きりの時しかしないのに、今日の賢矢は相当浮かれているみたいだ。誓も人のことは言えないが。
な? と促されて、誓はゆっくりと瞼を閉じる。
顎を掬われ、唇が重なり、互いの吐息が混ざり合った。
そして柔らかいキスの後、二人はもう一度笑い合う。
「「パパとお父さん、結婚しますっ!」」
ー終ー
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