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序——ケジと絵師——

 ぬるい風が吹いている。  木造家屋の一室。その壁の一面は、すす煙を纏ったかのように、じわりと黒に染まっていた。  部屋にひしめく人の群れ——固唾を呑んで座る人々の首筋を撫で、風は怯えた目の見つめる闇に、這いずるように抜けていく。  たった一人、黒髪の男が群れの先頭に座り、壁に相対して筆を執っていた。  男の瞳は何も見えないはずの闇を見つめ、束ねられた長髪は体が揺れるたびに背を流れる。  するすると墨のなすられる音が響く。  男の筆が舞う紙の上には、牙を剥く蛇が立ち現れていた。  と、不意に黒壁がうごめき、影が湧き出す。  立ち上がった闇が鎌首をもたげる。 「ぅ、わあっ……!」 「シッ……、静かにおしよ!」  人々の間から、小さな悲鳴と、怒声が上がった。  闇の蛇は動揺には目もくれず、粛々と男の前に這い寄り、紙に吸い込まれるように消える。  ふっと空気が緩んだ。  生臭い風は散り、部屋の壁からはすでに黒色が抜け落ちて、ただの暗がりとなっていた。  紙上の蛇の鱗が放つ、異常に生々しい墨の光沢だけが、一瞬の出来事が幻ではなかったことを物語っている。 「これは……見事な」 「評判に違わぬ腕前ですな、テンキ殿」  村人たちの溜息を受けて、黒髪の若者は顔を上げつつ、指先でそっと絵をつまみ上げた。  渡された村長の顔がほころぶ。 「このケジめには困り果てておりまして。これで皆も気が楽になりますわい」 「もう鶏をさらうことも、犬や子供を怯えさせることもないでしょう。処分はお好きになさるといい」  そう言う間に、テンキと呼ばれた若者は、半ば荷物をまとめ終えていた。  老竹色の着物から襷を解き、黒い裁着袴(たっつけばかま)の裾から埃を払って、立ち上がる。 「もう行きなさるのかね」 「ええ。報酬は先にいただいていますし」 「じきに日が暮れる、泊まっていかれたら……」 「どうかお気遣いなく。夜には慣れていますから」 「しかし……」 「お気遣いなく」  あまりの素っ気なさに、村長はそれ以上の言葉を返せなかった。  男は一礼し、薄灰の羽織を翻して出て行く。  しばしの沈黙の後、たちまち部屋に興奮しきった村人たちの囁き声が満ちた。 「ケジも見惚れる絵を描く男、噂は確かだったか」 「銭の払い損にはならずに済んだな」 「思っていたより、素敵な人だったわ。若いし」 「でも……にこりともしなかったぞ」 「涼しい目元だがね。時折、あまりにも冷たくて」 「不気味だよ、あんなに長い羽織なんか着てさ。影でも引きずってるみたいじゃないか」 「ゾッとしない術を使えるんだ、あの男自体もケジのようなものさ」 「普通じゃない……」  人々は継ぐ言葉を失い、皆で示し合わせたかのように、村長の手にする絵を見つめる。  てらりと光る蛇の目が、彼らの背を震わせた。 「——しかし、見事なものだ」 「俺には恐ろしいよ、早く燃やしてしまおう」  灯りが明滅し、ひと筋の煙が立ちのぼる。  村の門に立ち止まっていた人影が一つ、ふいと踵を返し、暮れなずむ山道へ消えていった。

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