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1.焔-1
「聞いたかい、例の絵師がこの辺りに来ているそうだ」
「絵師だァ?」
茶店の傘の下で蕎麦茶を啜っていると、そんな会話が耳に届いた。
私は噎せかけ、何とか喉を鳴らすに留める。
少し遠くにたむろする面々は、どうやらこの町の住人らしい。仕事の合間の立ち話といったところか。
「絵師っても、アレだ。ほら、あの、ケジ封じの」
「あぁ……。テンキ、だったか?」
「そうそう、そいつだよ。それなりに名の知れた輩が、なんだってこの町に現れたのか」
「そりゃ、呼ばれたんだろう。東の外れのボロ屋敷、もうずっと出るって話だったじゃねぇか」
一人がおどけた身振りをすると、別の一人がパンパンと大仰に手を叩いた。
「思い出したぜ。湿地の火の話か」
「他所からの客共にゃ知らねぇやつもいるけどよ。近所の連中は結構怯えてるんだぜ?」
「夜も更けりゃあ、屋敷の庭は湧き出た鬼火の巣窟に」
「ふらふら誘われた奴はたちまち取り囲まれて、ぬかるみに沈んじまって、そのまま戻ってくるとか、来ないとか……」
思わず口の端が緩みかけた。いかにも噂話らしい曖昧さだ。
屋敷から戻ってこなかった人間などいない。行方不明や変死などという事件が本当に起こっているなら、事は暇潰しの噂の種になる程度で済んではいないだろう。
それほど面倒な相手でなさそうだったからこそ、「絵師」は依頼を受けたのだ。
私は冷めてしまった湯呑みを空にしつつ、空を見上げた。日はまだ高いが、肌寒さが東雲 との別れを惜しむ今の季節、傾くのも早い。少し長く休憩し過ぎたか。
折よく店主が通りかかったので、食器を返してその場を後にした。
背後からはまだ話し声が聞こえたが、内容は既に仕事の愚痴へと移っていた。
それなりに規模の大きな宿場町も、大道沿いを外れれば一気に閑散として、すれ違う人の数は多くない。
この手の静けさは好きだ。旅装が目立たないのも良い。
特に急ぎもせず歩きながら、依頼人の話を思い起こす。
使われなくなった古屋敷の中庭に、いつからか鬼火が棲みついている。不気味だと噂が広まっており、屋敷を潰し、土地を使う計画に支障をきたしている。やり方は任せるので、適当に追い払ってはくれないか——……。
私——絵師テンキが聞いた話はおおよそ、そんな内容だった。
人の流動する土地ならではの、ケジへの警戒心の薄さだ。
何しろ人に実害が出ていないから、甘く見るのも仕方ないのかもしれない。
しかし、私と同じくらい名声の高い同業者……を騙る詐欺師はいくらでもいる。得体の知れない流浪の術師をこうも簡単に信じていいのだろうか。
ケジとは怪異現象、人の手の届かない領域のモノだ。手間を惜しむ相手を間違えてはいないか。
お節介なことを漠然と考えているうち、いつの間にか足元の舗装は途絶えていた。
湿った土と草の匂いが鼻をくすぐる。
私は傾いた廃墟の門前に立っていた。
空気が独特に澱んでいる。噂の正体が忍び込んだごろつきの火や子供の悪戯ではなく、怪異であることに間違いはないだろう。
枯れた下草を踏み分けつつ、建物に近づいて、覗きこむ。
床のあちこちに大穴が空いている。調度品の類いは取り払われて、全体はがらんとしているが、あちこちに瓦礫や、破片や、ゴミが散乱していた。小さく白く光るのは鼠か何かの骨だろうか。
注意して室内に上がってみる。ひどく軋む。旅杖で床板の脆そうな部分を突いてみると、嫌な音を立てて崩れてしまった。
「……ひどいな。完全に腐っている」
これでは紙や道具を広げるどころか、歩くこともままならない。やはりもう少し早くに確かめに来るべきだった。
鬼火は夜に現れるという。完全に日が落ちる前に、庭を眺めることができ、かつ絵を描ける場所を探さなければ。
または、今日のところは諦め、鬼火の様子だけ見て引き返すか。
考え事をしてはいたが、ぼんやりしていたつもりはなかった。
だというのに、背後の気配に気がついてから、振り返ろうとするまでに間はなかった。
唐突に、視界が真っ黒になる。
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