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第1話
「このクズが!」
木箱を投げられて逃げる事も出来ずに背中にガツンと衝撃を受ける。先程までお酒が入っていたそれはとても頑丈で重く、俺はその箱ごと床へと倒れこんだ。
イライラするとこの男はいつも俺を痛めつける。こうして突然向けられる怒りを俺はいつも避ける事が出来ない。
「お前みたいな黒いクズを拾ってやったのは誰だ?その恩も忘れて何サボってんだ!」
投げられた木箱の威力で息が詰まる。
オーナーでもあり用心棒でもあるこの男は、体格が良くその力も強力で、ひょろっとした俺の腕なんか一捻りで潰してしまいそうだ。
そんな男に投げ飛ばされた木箱の威力にグゥっと息が詰まった。
ゲホゲホと咳き込むと、それを見下ろしていた男は鬱陶しそうに俺の身体を思い切り蹴る。更に身体に痛みが走った。
俺は別にサボっていない。今だって黙々と店の中を掃除していたのを目の前で見ていたはずなのに。
しかし、その言葉を口にする事は出来ない。言い訳は更に激しい暴力に結びつくのを知っている。
俺は辛い身体を起こし、痛みをこらえて立ち上がった。そうしないとすぐにまた破壊力のある蹴りが襲ってきそうだった。
「ちょっとクズ、お前まだ掃除終わらないの?」
木箱を投げた男の後ろからヒョコっと綺麗な顔の若い男が顔を覗かせた。彼はもう一人の店のオーナーで接客と経営をメインに担当していた。
「クズがトロくて躾をしてるところだ」
楽しそうに笑う用心棒の男に、綺麗な顔の男はクスリと笑った。
「ああ、クズだもんね……。それにしてもやっぱり黒は気持ち悪いな。お前さ、働かせてやってるだけでもありがたいと思いなよ」
先程倒れた拍子に被っていたフードが取れてしまった事に気付いて、慌てて被り直し自分の黒を隠した。
「そんなものを持ってるのにここで働けるなんてとても贅沢な事なんだよ?お前の為に沢山仕事をあげてるんだから感謝して欲しい位だよ」
「他の下働きを全部辞めさせてお前に仕事を与えている俺達はなんて優しいんだろうなぁ?」
「……あ、りがとう……ございます」
人を雇うのに無駄な金を使いたくないと、料理人以外の下働き三人を辞めさせてしまったのは俺が雇われて三日後の事だった。
感謝の言葉を述べると、二人は溜飲を下げたのか他の話題を話し始めた。
「そうだ、昨日夜会にあの伯爵様に連れてってもらったんだけど、今夜お友達とお店に来てくれるって」
「ああ、あのお前に惚れ込んでる貴族か」
「そうそう、あの人僕がちょっと優しくサービスするだけで湯水の様にお金を使ってくれるから」
「せいぜい限界まで搾り取るんだな」
「ふふっ、わかってる……それより、ねぇ」
「そうだな。開店まで可愛がってやる」
「楽しませてよ」
楽しそうに店の奥へ連れだって歩き出した二人は扉の前で振り向いて、見下すような視線を投げた。
「サボってないでさっさと働け、クズ」
「店では気持ち悪いその黒は見せないでね。吐きたくなるから」
「……はい」
二人が去り、扉が閉まるまで俺は頭を下げていた。
何を言われても、何をされても逆らう事は許されない。
あの二人は俺を気持ち悪いと言いながらも雇ってくれたのだ。
それを思うとどんな仕打ちにあってもただ耐えるしかなかった。
俺がこんな所で仕事をするなんて以前には考えられなかった。
だって俺がいたのは日本で、普通の家の普通の高校生だったから。
普通に学校に行って普通に家に帰り、たまにバイトなんかして夜は普通に寝る生活が俺の日常だった。
なのにある日、バイトから帰宅する為普通にいつもの道を歩いていたはずが、目眩がして、気付いたら何故か舗装もされていない道を歩いていた。
訳がわからなかった。
そこには道しかなくて周りは森だった。
そんな森にポツンと一人立つ自分。
どういう事だと頭は混乱したまま、その森を抜ける為ただひたすら目の前に続く道を歩いた。
暫く歩くと視界が拓けて遠くに建物が見えた。
自分がいた場所は山の中腹で、遠くの風景までよく見えた。
視線の先にあったのは街らしき場所。だけど俺が知る、俺が生活していた場所の風景とはかけ離れていた。
そこから見える建物が、まるで中世の外国かRPGの世界の様な、日本では見られない作りのものばかりだった事に愕然とした。
森を抜け平地になると、元々はきっと家だっただろうものが道沿いに倒壊して点在していた。その建物だった物もやはり自分が知っているものとは大分違う。
それを横目で見ながら更に歩くと道が二股に分かれていた。
山の上から見た風景を思い出し、大きな建物が多かった方の道を選んで進んだ。
街に入ると目がチカチカした。
この街にいたのはまさしく俺のイメージしている中世の貴族の様な、華やかな服装に豪華な装飾品を身に付けている人達だった。
彼らはとても優雅に、威厳を持って歩き、話し、買い物をしていた。
なんだこれ、タイムスリップ?それとも異世界?
俺の今の格好は着古したジーンズに量販店で買ったパーカーだ。周りからものすごく浮いているのは否めない。
どう見ても日本人ではない彼らの言葉がわかるのが不思議だったが、お店にかかる看板らしき物に書かれているものが言葉なのか模様なのかはさっぱりわからない。
訳もわからずキョロキョロしていると、道行く人達は俺を遠巻きにしてヒソヒソと話をしていた。
「髪も目も黒いなんて気持ち悪い」
「黒持ちなんて見るだけで目が潰れてしまいそうだ」
「あんな黒い下賎の者がこの街にいるなんて警備隊は何をしているんだ」
「近寄りたくない」
「関わっちゃいけない」
「早く消えろ」
俺を中心に言葉の暴力が突き刺さる。
この世界で黒い髪はどうやら嫌がられて嫌われる対象の様だった。誰も近付く事はしないが、あからさまに嫌がられているのはわかった。
なるほど、よく周りをみれば明るい金の髪色とキラキラした碧い目の人ばかりだ。自分の持つ色はこの世界ではどうやら気持ち悪い色なのだとその時初めて知った。
急に知らない場所に来て、やっと人に会えたと思えばとことんまで嫌がられる。その状況にいたたまれず、慌ててパーカーのフードを被り逃げる様に元来た道を走った。
街から離れたあの分かれ道に戻った時には太陽も沈む頃だった。
お金もない。髪と目が黒いからと嫌がられ、誰かに話を聞く事も出来ない。身体はとても疲れている。
今は取り敢えず寝る場所だけでも確保したい。
その時、道端にあった殆ど倒壊していた建物の事を思い出した。
せめて屋根のある場所で休みたいと思い、点在している壊れた建物の中から、屋根が半分崩壊しているけれど中に入れそうな窓がある家を選んだ。
誰かが戯れに入ったりしないような場所。そこで今まで起こった事を落ち着いてちゃんと考えたかった。
壊れた窓から入れば中は思ったよりもマシで、奥の部屋には壊れかけたベッドがあった。布団などはなかったが横になれる場所があるのは僥倖だ。そこに倒れこむ様に疲れた身体を投げ出せば、あっという間に泥の様に眠ってしまった。
目覚めた時、壊れた屋根の隙間から星空が見えた。
そこでやっぱり夢じゃなかったんだと再認識し、その現実にうちひしがれた。
だけどこのままここでずっと寝ている訳にもいかないだろう。
改めて現状を考えた。
今いるのは中世の世界ではない。街の看板は英語でも俺の知る外国語でもなかった。だけど言葉は通じている。
いわゆる異世界にいるのかもしれない。
ただ、世間で流行っていた様な異世界物とは全く違う事がある。
黒髪黒目は忌避されて、嫌われる。
この世界では俺の様な人は全くいない。
誰もが色んな明るさはあれど基本金髪碧眼だった。その中で俺のいかにも日本人という造りの姿形はとても異端だ。
きっとこんな重い色はこの世界では弾かれてしまうのだろう。
なのに何故自分がこんな所に飛ばされてしまったのか。ちやほやされなくても、せめて嫌われない場所に飛ばされたかった。
目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになった時、グゥ……と腹の虫が鳴った。
人はどんな時でもお腹は空くのだと初めて知った。
何もない俺は取り敢えず近くにあった川の水をたらふく飲む事で当座を凌いだ。
そんな事を考えても今の生活を受け入れなければならないのが現実だ。
生活をする為にはお金が必要だ。お金がない俺には食べる物が手に入らない。
何故か言葉はわかったけれど文字なんて何かのデザインか模様みたいでまるで読める気がしない。
それでも何とかお金を稼がなければいけない。
翌日からお金を稼ぐ為、あの道をもう一度歩いた。
店っぽい所に片っ端から入り、雇って欲しいと頼み込んだ。
しかし、
「黒髪で黒目なんて気持ち悪い」
「文字すら読めないのか」
このどれかの言葉で見下され
「お前みたいな気持ち悪い奴は雇えない」
と断られるばかりだった。
それでも挫けず足で地道に仕事を探して探して。やっと雇ってもらえたのはこの高級そうな夜の店。
ここは何故か裏通りの人目につかない場所にある。そこそこ客も入り繁盛している様にみえるのに不思議だなと思う。
この店はどうやら紹介無しには入れないらしく、飲みに来た客は店の可愛らしい少年や青年に接客されて楽しく過ごす。
時々チラッと店の中が見える事があるが、客の膝の上に店の少年が乗り、いちゃいちゃしたりキスしたりしている。
それ以上の事はお金を詰めば奥の部屋でサービスをするらしい。
どんなサービスかはわからないが、その部屋の片付けは自分がしているから部屋の匂いと状況で大体は想像出来る。
オーナー達も開店前によくそこで情事に耽る。
開店と同時に客が使う事もあり、その前に慌ただしく片付けをしなければいけないのは本当は勘弁して欲しかった。
ここでは更にお金を積めばその子をお持ち帰りが出来るらしい。所謂アフターというやつだろう。
凄い世界だなと思う。
店の子は入れ替りが激しいが、いつも綺麗で華やかな少年や青年達が一定数いる。
いなくなる店の子は客に高額で買われている様だった。ここに来る客は誰もがキンキラと派手で、お金持ちそうな騎士様や貴族様だ。
人ひとり買うのにも躊躇しない程のお金を持っている身分の高い人達なんだろう。
初めは驚いたけれど、綺麗で可愛い男の子ならば客も嬉しいのだなと、店の奥の隙間から見える店内を見て納得した。
この世界では恋愛も結婚も性別は関係なく男女は勿論、同性同士で付き合ったり結婚も出来るらしい。
らしい、としかわからないのは今まで聞こえてきた店員や客の話から想像するだけだから。
俺には聞ける人がいない。用事がある時に向こうから「おい、クズ。あれやっとけ」としか話しかけてはこない。気持ち悪がられているのは知っているので、こちらからも余り近付く様な事はしないようにしている。
詳しくはわからないが、ここは俺がいた世界より色恋はおおらかな気風なのだなと思うだけだ。
自分は裏方で、開店前の準備や閉店後の掃除などを任されていた。表に出たら店の品位が落ちると言われ、存在を消すようにフードを被ったままでひっそりと働く。
時にオーナーに八つ当たりの様に殴られ蹴られる事もあり、それもお前の仕事だと言われた。理不尽だとは思うけど、それも彼らの癇癪が治まれば終わるのだからと踞って耐えた。
午後の準備から日付が変わる頃、片付けが終わるまで働いて何とか一食分の金になる。
気持ち悪いお前なんかを雇う所なんてないんだ。それでも雇って給金まで出すのだからありがたく思え。
雇われる際にそう言われ、その言葉に納得した。
だってどこへ行っても門前払いだったから。こんなみすぼらしい黒い奴は雇ってもらえただけでも奇跡なんだろう。
住む所は最初に寝泊まりした、街の外れにある廃屋をそのままこっそり借りている。ボロ過ぎて誰も近寄らないので住むには好都合だった。万が一持ち主がいて、咎められたら貯めたお金を払って許してもらおうと思う。
二回に一度食事をすれば一食分は浮く。それを今少しずつ貯めている。実際は給金が出ない日が多くてあまり溜まりはしないけど。
給金は流石に通常より少ないとわかっていても、この世界で異端である自分を雇ってくれるだけでも御の字だった。
この店を辞めさせられたらもう後はない。
お金がなければ飢えて死ぬしかない。ただでさえ今も常に空腹を抱えている。
それでもたまには食べられる。
どんなに職場が辛くてもこの職場に捨てられたら終わりだ。
生きる為にはここにしがみつくしかなかった。
店に来る客はきらびやかな人が多い。店の子がきらびやかなのは更にきらびやかなお客様の相手をするからだ。お客様は貴族や騎士が殆んどで店は金払いの良い彼らを逃さない様に店員達が文字通り身体を張って楽しませている。
どちらにせよクズの自分には関係のない話だ。自分はただ日々の仕事をこなすしかなかった。
閉店後、俺はいつもの様に他の店員達が帰った後に掃除を始めた。
店員もいなくなり静かになった店を隅々まで綺麗にすると、少しだけ心の靄が晴れる気がする。
自分の部屋すらまともに掃除なんてしなかった自分が、名前も知らないこんな世界では毎日掃除をしているのかと自嘲してしまう。
集めたゴミの入った桶を持ち、外へ出る為に裏口の扉を開けた瞬間、何かが目の前に飛んできてぶつかった。
食事もまともにしていない俺の身体は軽く飛ばされて、飛んできた物と一緒に床に勢いよく叩きつけられた。
飛んできたのはガタイのいい男だった。その男の下敷きになってしまった俺はその重さに小さく呻いた。
「僕や店の子を誘いたいならちゃんとそれなりのお金を用意してくれる?貧乏人の相手をする程うちは暇じゃないんだ」
「こいつを誘うなんざてめぇにゃ百年早ぇんだよ」
扉の向こうを見るとそこにいたのはオーナー達。二人はお互いの腰に手をまわしてニヤニヤとこちらを見ていた。きっとオーナーがこの男を殴ったのだろう。オーナーはその勢いで飛ばされた男を思い切り踏みつけた。その強さと踏まれた男の重みがかかり、俺の息が詰まった。
「おいクズ!その貧乏人をさっさとどっかに捨てておけよ!」
「ねぇ、早く行こうよぉ」
「ああそうだな」
オーナー達はそう言い捨てて連れだってその場から去って行った。
二人の機嫌はそれほど悪くなかったらしく、振り向きもせずに去る姿を見て、これ以上痛い目をみなくて済んだ事にホッとした。
クズの俺の仕事は掃除だけど、この仕事は初めてだ。人を捨てるのは外に追い出すだけでいいのだろうか。俺よりも確実にガタイがいい男をどうにかする事なんて出来る訳がない。追い出す事で許してもらえないだろうか。
俺を潰している男は「貧乏人」なんて言われていたけど、俺からしたら皆等しく金持ちだ。この男もやっぱり金髪で艶がある。きっといいものを食べているのだろう。
「流石にガード無しは痛ぇな……」
そんな事を思いぼんやりその男を見ていると、彼は俺の上に手をついて起き上がった。その手が俺の鳩尾に体重をかけるものだから、グエッと変な声が出てしまった。
「えっ?うわ済まない!君っ、大丈夫かっ!?」
その人は慌てて起き上がり俺の身体も起こしてくれた。こちらを心配してくれる言葉なんて初めてもらったからビックリして言葉が出なかった。
「だ、いじょうぶ……です」
起こしてくれたお礼を言おうと顔を上げると男の視線が揺れた。
視線は俺の顔で固まっていた。
……しまった!起き上がった拍子にフードが取れてしまった事に気付き、慌ててフードを被り顔を隠した。
「すいません……」
見苦しい物を見せてしまった。
フードを目深に被り目も見えない様に俯いた。お客様の気分を害するのはいけない。そんな事を知られてしまったらきっとまた殴られて給金ももらえなくなってしまう。
オーナーの言いがかりで時々給金すらもらえない事もあって、俺の貯金はなかなか貯まらない。俺はただ空気の様に気配を殺してひっそりと生きていかなければならなかった。
そういえば日払いだと言われていた給金を最後にもらったのはいつだっけ……。
「怪我はないか」
見上げるとフードが落ちてしまうので、視線を首から下にしか向けられなくて目の前の服を見た。
豪華できらびやかな服だ。
袖もズボンもピシッとしてて繊細な刺繍が施されていて、とても贅沢なものだと一目でわかる。
やっぱり俺からしたら全然貧乏人じゃなかった。これで何食食えるのだろう。そんな事をぼんやり考えていたら何故か手をきゅっと握られた。
「君は華奢だから何処か痛めてるかもしれない。近くに借りてる家がある。そこで医者を呼ぼう」
「……いい、いらない」
医者なんて払うお金がない自分にはそんなの必要ないしいらないと、慌てて首を振った。勢いがついてフラついてしまうが構ってはいられない。
ただ目の前の男にまた嫌な言葉と暴力をぶつけられてしまうのが怖かった。
「君に俺の身体ごとぶつかったんだ。こんな小さい君の身体は何処か折れているかもしれない」
「平気ですから」
余計な事をしないで欲しい。早くここから去らないと。そう思い手を振りほどこうとするが手をがっちりと掴まれたままびくともしない。
「手、離して下さい……」
「駄目だ、医者に見せなければ」
「そんな金ないんだ。余計な事しないで」
「大事な事だ」
なんてしつこい男なんだ。
「放っといてくれ……っ」
空いている手で掴んでいる男の手をほどこうと必死になっていたらまたクラリと視界が歪んだ。
「あ……」
歪んだ視界はそのままゆっくりと闇にのまれて意識が途絶えた。
温かい布団に枕……身体をまっすぐにしたまま眠るのはどれ位振りだろう。
誰が待っているわけでもないけれど、あの一人暮らしのアパートの狭い部屋がどれ程ありがたいものなのか、今更ながらに思う。
嫌がられて避けられるあの辛い日々が夢だったのだろうか。そうだといいな。それなら辛かった日々だって今後の人生の糧になるだろう。
だけど、身体は全く動かない。どちらが夢なのだろうかあやふやだ。
おそるおそる目を開けると、高い天井に明るい部屋の中にいた。その明るさと反対に、アパートの自分の部屋では無かった事に気持ちが沈んだ。
わかっていた。だって今寝てるのは自分の煎餅布団よりも数段上のふわふわな布団だ。
身体は何か締め付けられている様でちゃんと動かせない。
どういう事だろう。回らない頭で必死に思い出す。
確か俺は飛んできた男と医者を呼ぶ呼ばないと言い合いをしていたんだっけ。
それから先の記憶がない。
「起きたか」
モゾモゾと動いていると声をかけられた。
声のする方に視線を向けるとベッドの脇に男が座っている。
顔は覚えていないけど、声があの言い合いをした男のものだった。男は顔を寄せ、その大きな手でそっと俺の頬を撫でた。顔が近くて焦る。
気持ち悪い色の目をこんな綺麗な碧い目の男が見ちゃいけないと視線を逸らした。
「君が目の前で倒れたからここに運んだ。痛みはどうだ?」
「……痛み?」
「君の身体はボロボロだ。そこら中に痣や傷があった。大体食事もまともにとっていないだろう。ちゃんと飯を食え」
何とか動く左手で腹や腕を触ってみる。そこには包帯らしき物が巻いてあった。
動けなかったのはがっちりと巻かれた包帯のせいらしい。
包帯……それはつまり。
「まさかあんた、医者を……」
「しっかり治療をしてもらった」
力強く頷かれ、目の前が真っ暗になった。
なんて事だ!治療費なんて俺がまともに払える訳がない。最近は給金だってもらえてないのに。
食事すらまともに取れない俺は今は、閉店後の掃除の時に客の食べ残したものをこっそり漁ってて、それでなんとか生きているだけだ。それなのに医者なんて、治療費なんて。
「……あんた」
「ん?何だ」
「俺を殺して」
頬に触れていた手がピクリと動いた。
「折角治療してもらっても……俺は今治療費を払うお金は持ってないし、食べる物すらまともにありつけない」
男が頬に添えた手は全く動かなくなった。人の手って温かいんだな、なんてどうでもいい事を思った。
「俺みたいな奴はまともに仕事をする事すら出来ない……皆この髪や目の色は気持ち悪いって言うし、何処も雇ってくれない。やっと見つけた職場は給金もまともに払ってくれない……。俺、なんの為に生きてんのかわかんない……」
本当は元の世界に帰りたい。だけどどうやってここにきたのかわからないのに、帰り方なんてわかる訳がなかった。
どうしたってこの世界にいるしかないならもう俺は。
「……もう生きていても意味がないんだ。だから」
「駄目だ。俺は無意味に人を殺す事などしない」
即座に拒絶されてムッとしてしまう。きっとまともな思考の持ち主なのだろう。
ちゃんと人並みに生活をしている人に、俺の生きている辛さをわかってもらえないのが腹が立った。
この世界の、俺が俺であるだけで存在自体を拒絶する理不尽さがたまらなく辛い。
「何でだよ、あんたたち金持ちは俺みたいな気持ち悪い奴には何をしても咎められないんだろ?ならさっさと俺を殺してどっか山奥にでも捨ててくれりゃいいんだ。俺はここじゃただの気持ち悪い厄介者だ……俺が死んだところで誰も悲しまないし何処にも迷惑もかからない。あの店も厄介払いが出来るんだ」
金さえあれば何をしてもいいんだと、俺はオーナー達だけじゃなく、時々客にも殴られたり蹴られたりして彼らのストレス発散の的になっていた。
そこにも金銭のやり取りがあったらしいが、そのお金は俺の知らない所で動いていたから詳しくはわからない。だけど客が楽しそうにそんな事を言いながらガツガツと俺の腹を蹴っていたから間違ってはいないだろう。
話すだけでもゼイゼイと苦しくなってくる。こんなに沢山声を出したのはもう随分と久し振りだった。
「だから殺してよ……あんたには迷惑かもしんないけど、俺がいた方がもっと迷惑が掛かる」
ふぅ、と大きく息を吐き出した男は更にじっと俺の目を見つめた。
気持ち悪いだろうに……そう思うが、男の強い視線にこちらの視線も動かせない。
「迷惑などではない。俺が君を、助けたかったから助けた。殺すなどもっての他だ」
至極真っ当な意見だ。人としては正しいし慈悲深い言葉だと思う。
だけど俺にとっては。
「もう生きてるの嫌だ……生きていても苦しい……」
改めて男の顔を見るとなかなかに端正な顔立ちだった。それが今は俺の言葉で苦々しいものになっている。俺の言葉に反応してくれた人なんてこの世界に来て初めてだったから少しだけ嬉しくなった。
名前も知らないあんたにはそれこそ迷惑しかかけてない。
でも、クズゴミを拾ったらせめてちゃんとゴミ箱に捨てて欲しい。
「あんたにはわかんないよ……人に気味悪がられて仕事もまともに就けない俺の気持ちなんか。誰にも必要とされない邪魔者でしかない俺がどうやって生きていけると?家族だって、知り合いだっていないこんな所で……誰も助けてなんてくれない、話すら聞いてもらえない。誰かの憂さ晴らしに殴られて蹴られて、この世界で邪魔者でしかない俺が生きていく意味って何?このまま生きても俺は殴られて死ぬか飢えて死ぬかの二択しかない。だったらもう今バッサリと死んだ方がマシなんだ」
頭に血が上っているのがわかるけど止められない。男の眉間に皺が寄って睨まれてもそんな事は知ったこっちゃない。
今までずっと、この世界に来てからずっと心の中に燻っていたものが溢れてくる。溢れ出して止まらない。
だって……だって本当に辛かった。こんな世界来たくなんてなかった。こんな知らない場所にひとりぼっちで飛ばされて、誰も俺の事をわかってくれない。気持ち悪い邪魔者だとあからさまに蔑まれながら生きてきた。
もうずっと頑張っていたんだ。だからさ、そろそろ終わりにしてもいいだろう?俺はもうこれ以上は頑張れない……。
ただ……誰も自分の事を知らない世界で死ぬのは、少しだけ
寂しい……。
フッと意識が浮上する。
二度目の目覚めともなれば、もう今がどんな状況なのかわかる。ただ、目が覚めた事でまだ俺は死んでないのかとガッカリした。
きっと話しながら眠ってしまったんだろう。誰かと話をするなんてとても久し振りだったから。
部屋は真っ暗だった。
だけど、雨もすきま風もネズミも入ってこない部屋で寝るなんて二度と出来ないと思っていた。とても快適で暖かい。
こんなにしっかり寝たのはどれ位振りだろう。
こんな居心地のいい所に長居してはいけない。身体を起こそうとするが身体が押さえ付けられている様に動けない。
さっきは左手は動かせたのに今はそれすら出来なかった。
どうして……と、視線を泳がせると横に何か気配があった。暗くて気付かなかったが横を見るとさっきの男が眠っていた。
動けなかったのは男の手がガッチリと俺の身体に巻き付いて抱き込まれていたからだ。
何でこんな状況に?
俺を助けた男は何故か俺の横で寝ていた。
もしかしてここは彼のベッドだったのだろうか。だとしたら申し訳ない事をしてしまった。やっぱり俺は誰かに迷惑を掛ける事しか出来ないんだな、なんて思った。
男は俺を抱き枕の様にして気持ち良さそうにスヤスヤと眠っていた。
整った顔立ちにバサバサの睫毛、スッとした鼻筋にちょうどいい唇。俺とは違うキラキラしたウェーブがかった柔らかそうな明るい金の髪。目も開いていないのにきっとこの男はモテるんだろうなと思わせた。
金持ちの道楽なのだろうか。俺を助けた理由はわからない。金持ちは貧乏人などどうでもいいというのがこの世界のルールなのに、この男は変な奴だと思う。
しかも俺は黒目黒髪で気持ち悪いことこの上ないのだ。近寄る事すら嫌がられておかしくないのに。
この男が俺を殺してくれないなら俺はそれを自分でなんとかしなければいけない。
まぁ、誰かを殺すなんて金持ちでも後味が悪いのかもしれない。
仕方がない。
明日ここを出て、全てを終わりにしよう。
ようやく決心がついた。
治療費はどう足掻いてもきっと必要な金額は貯まらないだろうから、俺の有り金全て渡して許してもらおう。
でも今は。
男が気持ち良さそうに眠っているのを起こすのも忍びないから。布団の、人の温もりがこんなに安らげるものなんて知らなかったから……。
それまでは人生の最後になるこの温もりを堪能させてもらおう。そう思いそっと目を閉じた。
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