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第2話
朝、目を開けるとあの男が相変わらず横にいて、柔らかく微笑んで俺をじっと見ていた。
なんだか頭がぼぉっとしていて、俺も目を逸らせずにぼんやりと見返した。
人にこんなに顔をじっくり見られた事も見た事もなかったから何だか不思議な感じがする。
男の手が伸びて、俺の顔を撫でると少し熱いな、と困ったように笑った。
「俺はグレンだ。お前の名前は?」
「……み、実……だけど」
「ミノルか、可愛い名前だ」
その何気ない言葉に喉の奥が詰まる。
ただ名前を呼ばれただけだ。
でも、この世界で今初めて名前を聞かれて、名前を呼んでもらえたのだ。
今までの俺はクズと呼ばれていたし、俺もオーナー達の名前すら知らない。お互いを呼びあってはいたけどそれは俺が呼んでいいものではなかった。
この世界で誰かに名乗られる事も誰かに名乗る事も初めての事だった。グレンが初めて俺が名前を呼んでもいいと許してくれた。
それがこんなに嬉しい事だったなんて知らなかった。
目頭が熱くなり視界がぼやける。
名前を知って名前を呼ばれた、それだけの事なのに。初めて自分がちゃんと人として認めてもらえた様な気がする。
困った様に笑うグレンの綺麗な顔がぼやけてしまって見えなくなった。
「ミノル、大丈夫だ。泣くな」
グレンが俺の目尻を指で撫でる。
どうやら俺は泣いているらしい。
ここに飛ばされてから泣いた事なんてなかったのに。
「ごめ……っ、さい。グレンっさ……っ」
「グレンでいい」
「グレン……っりがと……ざい、ます」
嗚咽でうまく言葉が出なくなった。
こんなに優しく話しかけられた事が嬉しくて、ありがたくて余計に涙が止まらない。きっと熱が出て心が弱ってしまったんだ。
お礼すらまともに言えなくなってしまった俺をグレンは優しく抱き締めてくれて、その大きな手で背中をさすってくれる。
そんな事までしなくていいと思うのに、頭はぼぉっとして、身体はとても重たくて、それに反応する事も出来ないし涙もずっと止まらない。
背中をさする手の温かさは俺の中までじんわりと染みて、心がふわりと温かくなる。その温かさが溢れすぎて涙になってハラハラと流れ続けていた。
人の温もりは危険だ。グレンの温もりが、優しさが心地良すぎてもう元の生活に戻れなくなりそうで怖い。
そう思うのに動けない。あたたかくて心まで染み渡る。駄目なのに。こんな沢山の優しさに自分が駄目になってしまいそうだ。
だけど。
だけど、今は……今だけは熱が出ているらしいから……。折角のこの温もりを享受しても許されるだろうか。
この温かさは危険だ。わかっているのに……今は手放したくない。だってこんなに心地いい。
ズルい俺はそのままそっと目を閉じた。
グレンはその日一日俺の側についててくれた。
ご飯もこの部屋。
ぼんやりした俺を起こしたグレンの膝の上に乗せられて、重湯みたいな汁を少しずつグレンがスプーンで運んでくれた。
温かい物を口に入れたのが本当に久し振りで、また涙が出てしまった。旨いか?と聞かれて頷いたけどそれすら頭がくらくらする。
「ちゃんと食べて元気になれ」
フラついた頭をさりげなくグレンの胸に寄せられた。全身がグレンに包まれているみたいで心地良くて安心する。
でも、これに慣れてはいけない。俺はいずれここを出て行かなければならないから。
グレンはその翌日から仕事があるからと出掛けていった。
「仕事が終わったらすぐ戻る。ちゃんと大人しく寝てろよ」
「うん、ありがとう……」
きっと昨日は仕事をわざわざ休んでくれたのだろう。申し訳ない事をした。
「行ってらっしゃいグレン……」
寝てろと言われてたので、ベッドの中から声を掛けた。何故かそれにグレンは驚いて一瞬固まった。
何か変な事を言っただろうかと考えていたら、グレンは足早にベッドまで戻って来て俺の額にチュッとキスをした。
「行ってくる」
至近距離でニコッと微笑んで、彼は颯爽と部屋を出ていった。
何故か嬉しそうに微笑まれて、更にはデコチューまでされた事で俺の熱がまたちょっと上がってしまった気がする。
グレンの家には執事のケインさんとメイドのモナさんがいる。グレンが仕事でいない時はこの二人が俺の面倒を見てくれた。
「ミノル、俺がいない時はこの二人がお前の世話をする」
倒れた次の日の朝、部屋に戻ってきたグレンはその後ろで頭を下げている二人をそう紹介してくれた。
「ミノルです……寝たままですいません」
グレンが二人を部屋に連れて来た時はまだぼぉっとしていて起き上がる事も出来ず、行儀悪いなと思いながらそのまま挨拶をした。
二人が頭を上げると目が合った。二人は寝ている俺を見て目を眇めて、さりげなく視線をそらした。
グレンが普通に接してくれていたから忘れていたんだ。二人の反応は、俺が人に嫌がられる存在だと言う事を思い出させるのには充分だった。
俺は下賎の黒を持っていて、この家の主に迷惑をかけている気持ち悪い奴なのだ。その反応がこの世界では普通の事だったのに。
グレンが優しくてそんな大事な事を忘れてしまっていた。
きっと二人ともこんなのを視界にも入れたくなかったはずだ。こんな黒くて気持ち悪いものを見せてしまって申し訳ない。
だけどまだ動けなくて、ここから出る事すら出来なかった。
せめて視界からは消えなきゃいけないと慌てて布団を被った。
「ごめ……なさ……あの、俺の事はほっといてくだされば……いいんで」
この黒は見えない様にするから許して欲しい。出来るだけ迷惑は掛けない様にするから、今は痛い事はしないで欲しい。すぐに出ていくから、視界に入らない様にするから……。
動けなくて、ただごめんなさい、申し訳ありませんと布団の中で丸くなり震える事しか出来なくなった。
「埋まっていたら息が苦しくなりますよ」
無情にも布団をめくられ、驚いて顔を上げると目の前にケインさんとモナさんが覗きこむように立っていた。
「ひっ……」
いつの間にかベッドの側にいた二人の距離に、オーナー達を思い出す。
拳を振り上げたり、蹴るために丁度いい距離。彼らはその距離からよく俺を殴っていた。
慌てていつもの様に身を守る為、身体を丸めて頭とお腹を庇った。お腹や顔は痛みに弱くて、すぐに痛さと苦しさで吐いてしまうから。
「ごめ、ごめんなさっ、動ける様になったらすぐ出ていきますからっ……ごめんなさいっ……」
きっと二人は怒っている。俺の事を気持ち悪いと思っているのに近寄って来る時、決まってオーナー達は拳を振り上げた。この後もきっといつもの様に痛い事をされてしまう。
「……大丈夫だミノル、ここでは誰もお前を傷付ける事はない」
丸まって震える俺を、ベッドに乗り上げたグレンはそのまま抱え上げ、ぎゅっと布団ごと抱き締めた。
グレンは優しくて温かい。だけど、知らない人は怖い。暴力も怖いし、嘲りや嘲笑だって俺の心を抉っていく。
「……ミノル様、貴方は主の客人です。傷付けるなんて事は万にひとつもありません」
「そうですわ。まずはゆっくりお身体を休めてお元気になっていただきませんと、主がもっと心配してしまいますわ」
縮こまる俺の側から二人の声が聞こえた。その声はとても柔らかくて優しい……けれどまだ知らない人は怖いのだ。
オーナー達だって普段お客に優しい声を出すけれど、機嫌が悪くなると急に怖くなっていた。
「大丈夫だ、この二人はお前を傷付けたりはしない」
グレンは俺が安心するように俺を抱えたまま何度も何度も同じ言葉を繰り返してくれた。
「大丈夫だミノル」
信じてもいいのかな。グレンがそう言うなら大丈夫なのかな。
そおっと顔を上げると優しく笑った二人の顔がそこにあった。
この世界、みんな結構体格がいい。あの店の可愛らしい子達も俺よりも頭ひとつ背が高かった。
ケインさんは勿論、女性であるモナさんですら俺よりも背が高いのだ。
そんな二人には俺なんかとても小さくて、すぐに放り出されるだろう。そう覚悟していたのに、二人はとても甲斐甲斐しく俺の世話をしてくれた。
殴られる事もないし、苦しくなる言葉をぶつけられたりもしない。逆に優しい言葉をかけられて、とても大切な物を扱うように接してくれる。
こんな事はこの世界に来てからは初めてでとても戸惑う。
俺はとても気味が悪いだろうに、二人はせっせと俺にご飯を与え、身体を拭き、包帯を取り替え温かい布団に寝かせてくれる。
夜には帰ってきたグレンが俺と他愛のない話をして、ベッドでは抱き締めて眠ってくれる。
この世界で初めて出会った優しい人達。
赤の他人に、気持ち悪い黒の俺にこんなにも優しくしてくれる。
優しくしてくれる度に俺のバカになった涙腺はボロボロと涙を落としてしまう。そんな俺をグレンは気味悪がったり嫌がったりしないで更にギュッと抱き締めてくれるのだ。
グレンに抱き締められるのは心地いい。安心する。だけどその分怖くなる。
熱が下がったら……またあの生活が待っている事を忘れてしまいそうになる。
これに慣れてはいけないと思うのに、今夜もグレンの優しさに甘えてしまって温かい布団の中で一緒に眠った。
グレンのベッドの上で生活をし始めて五日もすると俺の熱も下がり、ぼぉっとする事もなくなった。
もうベッドから降りる事も出来る。一人でご飯も食べられる。
それはこの優しい生活の終わりを意味する。
いよいよ出ていかなければいけないと腹を括った。
早くここから去らないといけない。こんな居心地のいい場所に長くいては何処へも行けなくなってしまいそうだ。
こんな俺に色々してくれて感謝してもし足りない。この恩はどうすれば返せるだろう。
そんな事を考えたらもう死ぬ事も出来なくなった。
もうすっかり熱も下がったのにグレンは当たり前の様に俺の世話をしている。この屋敷の主だろうに、ケインさんとモナさんに「世話は俺がやる」と言い、家にいる間は俺に付きっきりだ。
嬉しそうに俺にご飯を手ずから食べさせるさまが、二人に呆れられているのをこの男は気付いているのだろうか。
今はもう夜、ベッドの中で相変わらず俺はグレンに抱き締められていた。
あったかいなぁ、最後にこんな生活をさせてもらえるなんて思わなかった。この世界に来てからいい事なんて無かったけど、グレンのお陰で最後にいい思い出が出来た。感謝ばかりが募る。もう思い残す事もない。
「もう熱も下がったな」
「うん、グレンとケインさんとモナさんのお陰だよ。ありがとう」
この間まで死にたい程辛かった俺の身体は熱も下がって元気になった。その上ちゃんとした食事までさせてもらって、あの店で仕事をしていた時よりも随分と健康になってしまった。
グレンに言わせればまだまだだと言うけれど、俺にしてみれば肋も腕も少しは肉が付いてきたと思う。
グレンには感謝しかない。
早くグレンの優しさに報いたい。
「俺としてはもう少し寝ていて欲しいんだが」
「平気だよ、身体は重くないし元気だし」
「そんな事はないだろう」
もう五日も寝ていたからだらけ癖がついてしまいそうで怖い。もうこんなに元気になったのに動かなければ身体がなまって仕事に戻っても穴を開けてしまうかもしれない。そんな事になればまたあのオーナー達は拳を上げるだろう。
グレンは心配性だ。こんなに動ける様になったのだからもう仕事に復帰しても問題はないのに。
グレンの目の前で倒れたから余計に心配してしまうのかもしれない。
「あのさグレン……」
「どうした?」
「俺、明日ここを出るよ」
本当は直接顔を見て言わなければいけないのだろうけど、それを言った時にもしもグレンがホッとした顔になったら。そりゃ心配してくれていたからそうなるのは当たり前なんだけど、それが何だか少し寂しいなんて思ってしまって、いつもの抱き締められた格好のままその胸元で告げた。
「……何故」
「だってもう熱は下がったし……これ以上世話になる訳にはいかないよ」
「まだ包帯も取れてないだろう」
包帯はまだ取れてはいないけど、もう痛みだってない。体力だって前よりもある気がする。
ここまで回復してしまえば、もう居座る理由も見つからなかった。
「もう大丈夫だよ、俺グレンにもう迷惑かけらんないもん。ちゃんと仕事して治療費とか返さなきゃ」
「治療費などいらない」
グレンはむぅっと拗ねた様な声を出した。
俺の言葉に拗ねているのかと思うとちょっと可愛く感じてしまう。
グレンは優しい。きっとその優しさを色んな人に分け与えているのだろう。この優しさがいつか人に騙されてしまうのではないかと心配になってしまう程だ。
「駄目だよ、ちゃんとお金は払う。手持ちはあんまりないけど何年かかっても返すから」
「ミノルは金なんてあるのか?」
「う……」
痛いところをつくな。治療費がいくらかはわからないし、俺は絶対に全額は持ってはいないけど。
「……ゼロではないよ。住んでた所に少しだけ置いてある」
するとグレンは急に固い声になった。
「ミノルは今まで何処に住んでいた?」
「何処、って言われると難しいな……」
「……言えない様な所なのか」
「……うん」
だって俺はあそこがどういう場所で、住所がどうなのかも知らない。街の外れの殆んど倒壊したボロい小屋なんて、どう説明していいのかわからない。
「何故言えない」
「だって……」
言い淀むとグレンは俺の顎を掴み顔を上げさせた。
グレンは俺を気持ち悪いと視線を逸らす事がない。だから見つめられるといつも嬉しくて胸がきゅうっと苦しくなる。
それが今みたいに怒っている顔だとしても、グレンの感情が俺に向けられているだけでも嬉しく思ってしまう。
「なら余計に外には出せない」
「でも……」
「外に出るなら俺と一緒だ」
「一緒?」
「逃げ出したりしない様にな」
怒っているからか、少し眉間に皺が寄っている。
グレンは俺が治療費を踏み倒すとか思っているのかもしれない。
そりゃそうだ、食事だってまともに出来ていなかった俺がお金を払えるなんて思えないだろう。ただでさえこんな得体のしれない奴の口約束なんて信用できる訳がない。俺の身元を保証する物なんて何一つないんだから。
「逃げはしないけど……」
「言えない様な所に住んでいたんだろ」
益々グレンの眉間に皺が寄った。
ああ、そんなに皺を寄せたら跡が残っちゃいそうだ。
俺の寝泊まりしていた場所に何か不都合な事でもあるのだろうか……いや、あんな場所に不都合も何もないか。別に隠してる訳でもない……それよりもあれを家だと言えるのか。
「言えないっていうか……道順は覚えてるけど、そこの呼び名とか住所とか知らないから説明するのは難しい」
「言えないとはそういう……?」
「うん」
頷くとグレンは何故か急にポカンとした表情になり、それからニヤリと笑った。
今夜は色んなグレンの表情が見れて面白い。
「なら尚更一緒に行かねばな」
「何で?」
「お前はこの屋敷が何処にあるのかもわからないだろう?」
「……確かに」
そうだった。気付いたらここにいたから全くここが何処なのかもわからない。そう考えたらグレンの提案はありがたい事だった。
「明日お前がわかりそうな所まで連れて行く。お前の住んでいる場所を教えてくれ」
「……うん、わかった。でもグレン、仕事は?」
「これも仕事の一環だ」
俺についてくる事の何が仕事に関係あるんだろう。気にした所で俺にはきっとこの世界の事は理解出来そうもない。
「ほら、もう寝ろ」
グレンは俺の鼻先にチュッと唇をつけて、また俺を胸元へと抱き寄せた。
鼻にキスされて、抱き寄せられてなんだかとても恥ずかしい。
この世界の子供はもしかしたらこうして寝かしつけられているのかもしれない。俺の常識とこっちの常識は全然違うから詳しくはわからないけど。
グレンには他意はないのに俺が勝手にドキドキしてしまうのが少し悔しい。
きっと真っ赤になっている俺の顔はグレンの胸元にあるのでバレはしないだろう。恥ずかしくて嬉しくて、また胸がきゅうっとなった。
「う、うん……おやすみグレン」
「おやすみミノル」
ドキドキして眠れそうにないと思っていたのに、グレンの温もりは俺を呆気なく夢の中へと誘った。
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